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交換日記 nikkijam

2008/08/30(土) 19:13:39 深海 夕莉
タイトル 百合の名 6 今日の気分END


 歩道の真ん中で立ち止まったら、背中の方で「っ」と息のつまる音がした。振り返ると、学生服姿の男の子が(あたしの学校の制服じゃない)驚いた顔をして立っている。あたしが急に立ち止まったからぶつかってしまいそうになったのを、すんでのところで止まったようだ。「すみません」とお詫びしたら、軽く首を振ってあたしの横をすぅっと通り過ぎて行った。かすかに、どこかで嗅いだことのあるような懐かしい香りにくすぐられる。


 あたし、気づかなかった。そういえばお母さん、前から悩んでいたもんね。あの人のこともこれまでのことも、みんなリセットして最初からあたしとやり直そうとしてくれたんだ。そうとも知らず、自分が忘れられたのがショックで無理やりアルバムを何冊も見せたり、あちこち連れ回したりして、あたし悪い子だったなぁ……。

 邪魔しなくっちゃ。記憶なんか、戻らなくていい。

 あたしたちは、どこからでも母娘二人でやり直せるんだから――。


 さっきすれ違った男子校生が向かった先へ、あたしも歩き出す。風が髪をさらうたび、鼻先をかすめていく香り。さっきの男の子とすれ違ったときも嗅いだ。ああ懐かしいはずだわ、これはあの錆びた鉄階段の匂い――。あの人にナイフを突き立てたら、あるいは同じ匂いがするだろうか。同じ場所へ帰れるだろうかと、落ちたセミの死骸をかしりと踏みしめながら、考えていた。



2008/08/30(土) 19:12:47 深海 夕莉
タイトル 百合の名 5


 じじじじじ、と壊れたように鳴いているセミの声が、ときどきぶつりと途切れるのは何故だろうと気になった。あれは、そのたび一匹一匹、死んでいるのではないだろうか。生まれて羽化して鳴き続け、そして終了する。

「あっつい……」


  ゼロ。今、二十三日になりました


 昨夜、あの人から聞かされた話を何度も反芻しながら、最後の数ページを読み終えた『ミレニアム』という小説、そのワンシーンを思い出す。


  インドラツールがインストールされた状態だと、データは正常な形で存在する。だからプログラムも問題なく動く。でも、それは二〇〇一年六月二十二日までのこと。日付が変わった瞬間、データは読めなくなる。

  インドラツールが何かしているとしか思えない。データ破壊を引き起こす何か。


「ひょっ…として……」

 あれは、お母さんが自らの意思で引き起こした『バグ』なのではないか。仕事や家事は問題なくこなし、ただ自分と周囲の人間との関係性、それに連なる自分の記憶のみを思い出せなくした。

「そうだったんだ!」


2008/08/30(土) 19:11:48 深海 夕莉
タイトル 百合の名 4


「そうだわ、利用カードはもう作っている…?」
「読みたい本があるんですか?本棚の場所は分かる…?」
「そうそう、ここね…ケーキもあるの…せっかくだから、食べていきます?」

 母は、あたしが思っていたよりもずっと順調に業務をこなせているようだった。こうなる以前に遊びに来たときと、雰囲気こそ別人になってしまったが、手元は迷いなく次の動作に移っている。

 むしろ、急に現れたあたしに対する態度のほうに困っているようだ。来ないほうがよかっただろうか。かえって邪魔だったかもしれない。途切れ途切れの質問に対してうつむいたまま押し黙っていたら、隣のカウンターに座っていた同い年くらいの女の子が「深海さん、お先に休憩どうぞ!」と元気よく答えてくれたので、あたしは母に連れられて随分久しぶりに奥の喫茶室へ入った。

「お母さんが普通に仕事してるの見て、うん…なんか安心しちゃった」

 本当はちょっと拍子抜けした。困っていないならそれに越したことはないというのに、例えば分からないことだらけで、てんてこまいで、あたしの顔を見たとたん安心しちゃうかな、そんなちょっと情けないとこのあるお母さんも、好きだったから。やっぱり少しがっかりしているみたい。

 自分は意地悪だなぁ、と思ったとき。お母さんがカナコ姉さん――あの人と他の誰かの娘、の話を持ち出した。夏休みなのに帰ってこないのかしら、なんて言う。夏休みであろうとなかろうと、帰ってこないんじゃない?カナコ姉さんは、あたしのことも、お母さんのことも、あの人のこともみんな恨んでいる(その点については気が合いそうだった)。恨んで恨んで、そして出て行ってしまった。あたしたちが彼女の居場所を奪ったのだ。

「じゃあ、もう行くね」
「帰るんですか…?」
「うーん、まだ。暑いしどっかでアイスでも食べてく」
「そう……気をつけてね」


2008/08/30(土) 19:10:42 深海 夕莉
タイトル 百合の名 3


 階下へ降りると、リビングであの人が煙草をふかしていた。

「まだ起きていたのか」
「…………」

 無視して冷蔵庫から麦茶を取り出し、グラスに注ぐ。
 琥珀色の飲みものを持ってリビングを出ようとしたところで、また声をかけられた。

「夕莉…という名は……夕子がつけたのかい」
「…………」
「……いい名だ」

 きもい、と横顔だけで答えてやったけど、気にも留めていない様子で僅かに口の端を上げただけだった。なんて気持ちの悪いひと。そんな言葉を言っておけば喜ぶとでも思っているの?そんなふうに誰かをたやすく陥落できると思っているの…だろうか。実際のところを言えば、あたしはこの人のことなんて何も分からない。知ろうともしない。でも、それでいいのだ。あたしたちは、いつまでもこの人のもとになんて居やしない。

「夕莉の『莉』という漢字はね、それ単独では意味を成さないんだ。『茉』と結びついて『茉莉(ジャスミン)』となるように、古代中国で主に植物を表すときに――ああ、まぁそれはいいか。とにかくね…他と結びつくことで初めて意味を持つ字なんだよ」

 二本の指の間に煙草を挟んだまま、右手ですっと空に字を書く。『莉』と書いているのだろうか。いい気持ちはしなかったが、とても良いことを知った気分でいたから、うす汚い煙が海蛇のように震えるのを黙って眺めていてあげた。
 

 夕子、と結びつくことで初めて意味を持つ夕莉。


 そんな存在を望んでいた母。


 そしてあたしは今こうして、ここにいる。


2008/08/30(土) 19:10:12 深海 夕莉
タイトル 百合の名 2


 「真野さん、あなたも鋭いんだか、鈍いんだか、分からない人だね」

  いつの間にか…の手にナイフが握られていた。ひっと息を飲んで、馨は身を引く。その馨の肩を…ががっちりと掴んだ。


 よーしきたきたきた!と興奮しながら、あたしは2袋目のコンソメパンチをベッドで開けた。あんまり間食しちゃだめよ、といつかお母さんが言っていたけれど、これだけどうしてもやめられない。昔から気分が高揚するとおなかが空いた。世界史の授業で第二次世界大戦のあたりを聞き流していたとき、あたしは絶対、戦争の後は略奪しまくって好きなだけ食べまくって、ていうタイプだったんだろうなぁと思った。


 「さぁ」

  …は相変わらず笑みを浮かべたまま、馨に立つように促した。馨の目の前にナイフの刃先がある。それに部屋の明かりが反射していた。


 永井するみの小説に出てくるヒロインは、いつもどこか母に似ている。気だるげで、でも内側に真っ赤な溶岩が流れている感じ。その情がいつも邪魔をして、悪い男に引っかかったり、分かっていながら騙されてみたりとちょっと愚かなところも、いとおしい。

 銀色の装丁がほどこされたハードカバーの本をぱたりと閉じた。プレゼントのように枕の上に載せて、しばらくじっとそれを眺めてみる。

 あいつも、あの人に少し似ている。最初から怪しいと思っていたのよ。ようやく本性を表した。見てごらん、その見くびりきった笑顔を凍りつかせるのはすぐ。ナイフを奪って逆に振りかざしたらきっと、彼の目に刃先が見える。光を反射して、それで最後だ。

 ゆっくりと深呼吸したら、喉の奥がかさかさと鳴った。もうこんなに時間が経っていたなんて。お母さんはとっくに眠っているだろう、明日も仕事だと言っていた。あたしもテニス部の練習が午前いっぱいで終わる予定だから、様子を見に行くのにいい日かもしれない。気を遣えば逆に遣い返されるやりとりが切なくて、仕事のことには口を出さないでいたけれど、誰のことも分からないまま苦なく働けているのか、やっぱり心配だった。


2008/08/30(土) 19:09:31 深海 夕莉
タイトル 百合の名 1


 あたしの名前は、夕莉。

 お母さんの名前から、ひとつ、分け与えられて生まれた子供。


 「深海」という名字はあたしになんら係わりのない記号だ。深海にまつわるすべての出来事と、そこから枝分かれするイメージのすべてが、暗くよどんだ澱のようにどうしようもなく鬱陶しい。あたしたちが生き、暮らすのに適さない海の底、暗くさみしく、得体の知れない生物が徘徊するそんな――深海とあたし、あたしと母、そのなんら係わりのない「無関係」。無関係のままでいられたら、どんなに良かったか。

 母の名は夕子。美しい暮れの時刻、一生懸命なあたしたちそのもののような太陽の去り際、母の名はまるで母そのものだ。一日一日を大切に燃焼させていたあたしたちの生活がそこにあって、母の名を口にすると、その度あたしの心はあのアパートへと帰る。錆び付いた鉄階段をゆっくりとのぼってくるお母さんと、それを台所の小さな窓から顔を出して待ちわびたあたし。

 あれ以上に世界が完成することがあったとしたなら、それはあたしが母をもっともっともっともっと守り助けられるようになるくらいだった、はずだった。どっちにしたって、あたしは母がいればそれでよかったし、母もそうであると信じていたのだ。


2008/08/04(月) 19:21:48 恵見 譲
タイトル 拡散する夢 4 今日の気分おわり


「いなくなっちゃ、いけないよ」


 唐突に話しかけられて、ぼくはあわてて本を閉じ足をソファの縁からおろした。が、あたりには誰の姿もない。また、「空耳」だろうか。そう思いながらふと視線をあげると、見あげた先、一階の本棚の横に据えられた椅子に、濃いグレーのカーディガンを着たおじいさんが座ってにこにことぼくのほうを見ていた。ここに座っているとき、ときおり見かけるおじいさんだった。
 あのおじいさんが喋ったのではない。ぼくにはわかっていた。ぼくの座っている場所から、あのおじいさんの場所までは、それほど距離はないけれど、ぼくに話しかけた声はほとんど「囁き」と言えるほど静かだった。あの場所からはりあげた声では決してない。

 けれどもおじいさんはぼくの顔を見て、微笑んだまま「わかっているよ」とでも言いたげに頷いた。おじいさんのまえを横切っていったひとのかばんが、おじいさんにぶつかったような気がしたけれど、おじいさんの微笑みは少しも変わらなかった。

 ――ひょっとしてあのひとも、ぼくが「いつもここにいる」のを知っているのかも知れない。


 途端に、「深海」さんに対して抱いたのとおなじ気分がこみあげてきて、ぼくは絵本をかかえたまま途方に暮れてしまった。けれどもやっぱりそれは、厭な気持ちではなくて。


 もう一度顔をあげたとき、もうそこには誰もいなかった。
 ぼくはしばらくのあいだ、おじいさんの座っていた椅子を眺めていた。それから、再びソファに座り直して、絵本を開いた。柱に掛けられた時計を見て、きょうはもう時間のことを考えるのはやめようと思った。


2008/08/04(月) 19:21:04 恵見 譲
タイトル 拡散する夢 3


 ふいにぼくは顔をあげる。誰の姿もない。時計の針を確かめると、いつの間にか九時を回っていた。枯れた池の石のうえを鳥の影がよぎる。寝覚めぎわの夢のように、やわらかな誰かの声と、洗濯物の匂い。
 ひんやりとした畳の手ざわり……ぼくの家に畳張りの部屋はない。


 ――ねえ、……秋彦?


 ぼくはペットボトルの麦茶をひとくち飲むと、来たときとおなじように校舎の脇を回り、正門を出た。



 開いたばかりの図書館には、まだひともまばらだった。いつもカウンターに座っている女のひとも、このあいだ突然話しかけられたときにはびっくりしたけれど、きょうはやっぱりいつもとおなじように、にこりともせずにぼくが返却した本を受け取ってくれた。エプロンの名札に、「深海」と書かれていた。「しんかい」と読むのだろうか。深い海。変わった名前だけど、この図書館にはぴったりだと思った。
 話しかけられたとき、上手く答えられなかったことを謝りたいような気もした。急に声をかけられてびっくりしたのは本当だけど、それ以上にぼくは、あの女のひとが「もう一度、借りてゆかれますか」と言ったことに驚いたのだ。ぼくがまえにもその本を読んだことを、あのひとは知っていた。それは、厭な気持ちというのでも、嬉しい気持ちというのでもなくて……不思議な気分だった。

 けれど、思い切って声をかけてみようと思ったちょうどそのとき、カウンターに本を置いて「深海」さんに話しかけたひとがいた。ぼくは、相変わらず静かな顔と声でそのひとに答える「深海」さんを少しのあいだ見つめて、それからいつもの一人掛けのソファへと降りていった。

 膝のうえで本を開く。その日えらんだのは、『旅の絵本』という絵本だ。両手のなかで広がる、遠い空と、なだらかな丘。海の底のようにしんと静まり返ったこの場所で、開いた本のページをただ眺めているだけで、どこにでも行けるような、いられるような気がしてくる。「ぼく」はどこにもいなくなる。


2008/08/04(月) 19:20:18 恵見 譲
タイトル 拡散する夢 2


 そしてお母さんはぼくが「いってきます」と言って出かけるのを玄関まで見送ってくれる。口をきゅっと閉じて、夢見るひとのような目をして、無言でいるときのお母さんの頭のなかがどういうふうになっているのか、ぼくには想像さえできない。お母さんはぼくが学校に行くのだと思っている。夏休みのことは忘れている。いつもの朝とはちがって滋がいっしょにいないのに、それでもこういうときのお母さんはそれをおかしなことだとは思っていない。
 お母さんのなかにどういう世界があって、どういうルールがあるのか、ぼくにはわからないし、それはお父さんにも滋にもわからないらしい。お母さん自身、ときどきは自分の頭のなかの動きにびっくりしてしまうのだろう、もう長いことお母さんは、月に二回お医者さんのところへ通っている。

 お母さんは大人だけど、迷子みたいだ。誰かがやってきて、正しい場所へ連れていってくれるのを待っているみたいに。その誰かが早くやってきて、お母さんが安心できたらいいのにと、ぼくは思う。


 「巖倉文庫」が開館する九時半まで、ぼくは学校の中庭にいる。夏休みの間も朝から練習をしている部は少なくない。正門をくぐったところで体育科の先生に挨拶をされたが、ぼくのこともどこかの部員だと思ってくれたようだった。

 中庭のベンチに座ると、かばんのなかから取り出したペットボトルのふたを外して、自分で入れてきた麦茶をひとくち飲んだ。それからペンキの剥げた背もたれに体をあずけて、色の濃い影を落とすケヤキの枝や葉を見あげる。


『わたしはこのことをすでに繰り返し語ってきた。そして家のことも、わたしたちの家のことも語ってきた。けれども、庭の木々のことを言うのを忘れていた。』


 光る緑がさわさわと揺れている。まだ午前だというのに日差しは全力で降り注ぎ、空気が生温いプールのように皮膚にまとわりついてくる。夏は年を経るごとに暑くなる。ほとんど体温と変わりない気温のせいで、こうしてぼんやりしているうちに、自分の体の境界がどこにあるのかさえ、わからなくなってくる。顔も手も、ぬるんだ大気のなかに溶け出していくようだ。


 ――そんなところにいたら、眩しいでしょう。


2008/08/04(月) 19:19:23 恵見 譲
タイトル 拡散する夢 1


 『ある町のこと』という物語は、本で読んだら僅かに三ページ程度の小さなお話で、ぼくはそれをもう何度も繰り返して読んでいたので頭から終わりまで思い出すことができた。
 もう半年ほどまえのことになる。小学校の卒業式を目前にした、寒い冬の日に、ぼくは担任の先生と教室で向かいあっていた。先生は、卒業式までの数日、クラスメイトの一人ひとりと話すために時間を割いていた。その日はぼくの番で、けれども「なんでも好きなことを話していい」と言われたぼくはすっかり途方に暮れてしまって、何を話したらいいのかわからないまま、ただ頭に浮かんだ言葉を口に出した――それが、『ある町のこと』だった。

 そのお話が好きなのね、と先生は言った。お母さんよりも少し歳上に見える、おっとりとした女の先生だった。ぼくは先生の淡い草色の上着に留められたブローチを見つめたまま「はい」とも「いいえ」とも言えなかった。好きなのか、嫌いなのか……そんなふうに訊かれたら、よくわからない。上手く言えないけれど、そういうのとはちがう気がする。
 ただぼくはその物語を、『小さくて、静かな町。』という最初の一文をそっと呟いてみるときに、なぜだかとても、なつかしいような、苦しいような、泣きたいような気分になる。思い出せないことがあるもどかしさ――少しちがう。思い出せないことがあるような、それとも、最初から何もなかったことを思い出そうとしているような、忘れていることなど何もないはずなのに何かを忘れてしまっているような……そしてそれが、とてもとても、だいじなことだったような。


『もし口を閉ざせば、あの町を取り囲むようにして高く暗く聳える山々の影に、わたしは息を詰まらせてしまうだろう。』


 夏休みの一日は、ふだんと変わりなく始まる。
 目覚まし時計の鳴る少しまえに目が覚めて、洗面所で顔を洗い、歯をみがく。平日なら、いつも通り制服に着替える。いつものかばんに、読み終えた本を入れる。
 下の部屋では朝ごはんの用意ができている。お父さんはぼくが起きるより早く仕事に出かける。休みの日でも、仕事がほかの何かに変わるだけで、夜まで見かけないことは変わらない。弟の滋はまだ起きてこない。お母さんはぼくのまえにお椀や箸を置いて、ぼくが手をあわせ、急ぎすぎないように、けれど遅すぎないようにごはんを食べるのをじっと見ている。何も言わずに。


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