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「こーちゃん、またぼけっとしてる!ちょっと、こいつどうしちゃったの?何とかしてよ、美知子ー」
いきなり話し掛けられた店長は、せっせっとラーメンを作っていた手を休めて顔を上げた。
店長はこの暑さと鍋から上がる湯気で汗だくだ。俺も東堂もあまり変わりはないけれど、店長が一番暑そうだ。
「あらら、駄目だね、伊吹。ちゃんと仕事してくれないと給料から差し引くよ!」
「そうだそうだ、差し引いてやれ!その分俺に回してくれりゃ言う事ねーよ」
「それは出来ない相談だけどね。しかし東堂、毎年毎年助けてもらっちゃって悪いね、感謝はしてるよ」
「何言ってんだよー、俺は美知子の為なら何だってするよ」
そんな会話が繰り広げられて、どこをツッコもうか悩む。
とりあえず…、かなり年配の女性を名前呼び捨てで呼ぶ東堂はどうなのか、といつも思う。
それでも、店長は何も言わない。東堂はそういう奴だ。
誰とでもある程度は親しくなれる。でも、本性はあまり人には見せないみたいだ。
高校の頃はよく我儘を言ったり泣いたりして、よく東堂に振り回されたもんだ。
最近はそういう事がなくなった。大人になったのか、と思っていたけれど、そうでもないらしい――東堂の恋人に話を聞く限りでは。
おそらく彼の前ではそういう面を見せているんだろう。
でもまあ、彼以外にはそんな姿を見せなくなったんだから、それだけ大人になったって事かもしれないな。
彼は苦労してるんだろうけれど。
「まあ、伊吹もね。色々あるんだろうさ」
「え、マジで?色々あんの?何、悩み事?」
「そりゃあ、悩みもあるだろうさ。若いんだから。良いねー、青春ってのは。おばちゃんももう少し若かったらねー」
…と店長はけらけら笑っているけれど。
店長はもう話を聞いたんだろうか、さゆりさんが東京に行くって事を。
…分からない。ただいつものように、勘だけで俺の感情を察しているだけかもしれない。あの人は何だってお見通しなんだ。
だけど、聞いていてもおかしくない。さゆりさんが東京に行くという事はバイトを辞めるって事だ。困るのは俺より店長の方だろう。
さゆりさんが辞めたら、店員に穴が開く事になる。どうするつもりなんだろう。
店長は最近腰痛が酷い。俺がシフトを増やすには限度があるし…。
新しいバイトを入れるのかもな…、それも嫌だけど。 |
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『私は夢を諦めたくないよ。瀬野さんの事を諦めてでも、歌手になりたいの』
『だから私、行くよ』
それでも、さゆりさんが東京に行くなんてまだ実感が湧かない。
ただ、さゆりさんの言葉が頭から離れなかった。
「…ちゃん?こーちゃん!」
隣にいた東堂に声を掛けられて、はっと我に返る。
東堂は怒っているのか、眉間に皺を寄せていた。
「何だよ」
「何だよ、じゃねーって!お前、どんだけ焼くつもりだよ!?焦げてるっつーの!」
気が付けば鉄板の上の焼そばが悲鳴を上げながら、鉄板に張り付いていた。
確かにこれは焼き過ぎだ。客に出せる焼き加減は当に越えている。
東堂は眉間に皺を寄せたまま、鉄板返しでそれを綺麗に取ってゴミ箱に捨てた。
「こーちゃん、ぼけっとし過ぎ!なんかあったのかよ」
「いや、別に…。何もないけど」
「嘘吐けー。さゆりとなんかあったんじゃねーの?あったんだろ!良い事?悪い事?」
「勝手に決め付けんな。…別に何もないよ」
何だ、つまんねーの――不貞腐れたようにそう言って、東堂は新しい焼そばを焼き始める。
東堂は割りと勘が良い方だ。気を付けないと直ぐにバレる。知られたくない事は特に。
現に俺がさゆりさんの事を好きなのも、東堂にはバレている。隠しているつもりだったのに。
東堂に悪気がある訳じゃないし、仕方がない事だと思うけど。
「でもさー、何で今日、さゆりいねーの?」
「ああ…、祭りに行きたいんだって」
「あ、そーなの?ていうか、お前が誘えよー!祭り行こって言えば良いじゃん」
「何でだよ…、俺とさゆりさんが抜けたらやばいだろ、この店」
「でも、誘えよー。さゆりはさ、絶対はっきり言わないと分かんねーって」
それは分かってる。ただ、俺は言わないつもりでいただけだ。
言わなければ伝わらない。それで良いんだと思っていた。
さゆりさんの傍にいれるだけで良い。俺の事を弟のように思っていようが、友達のように思っていようが、笑顔を見せてくれるならそれだけで良いんだ。
だけど、本当にそれで良いのか?さゆりさんがいなくなるっていうのに。
さゆりさんは瀬野さんに言うと言ってるのに、俺は何もしなくて良いんだろうか…。
言ったってどうにもならない。だけど、自分の気持ちの整理は出来る。
だったら、やっぱり言うべきなのか…。 |
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美咲が入院してから、僕は毎日見舞いに行った。
僕は美咲を元気づけようと必死だったけれど、美咲は自分の死期が近い事に気が付いていた。
「ごめんなさい、病気の事を隠していて。私、どうしてもあなたの傍にいたかったの。あなたの傍であなたが作家として成功する為のお手伝いがしたかったの」
「…言っていたら、僕が結婚しなかったって思ってるの?」
「ええ。あなたの妻として隣を歩いて行きたかったの。その為にはこんな身体はいらないの。こんな身体だって事を忘れたかったの」
確かに病気の事を知っていたら、結婚まで踏み切れなかったかもしれない。
僕みたいな経済力のない男と一緒になったら、苦労するのは目に見えている。
それでも一緒になりたかった。傍にいたかった――そう言った美咲に僕は涙を流した。
これほどまでに美咲は僕を想ってくれていた。それに気が付いた時にはもう遅い。
「勘違いしないでね、私は幸せだったの。あなたの傍にいれて、これ以上なんてない幸せを手に入れたの。だから、幸せなまま私は逝くわ」
「僕を置いて?僕は美咲がいなくなったら、幸せなんてもう二度と得られないよ」
「そんな事言わないで。あなたはあなたの幸せを、これから先見つけていくのよ。きっと出来るわ、あなたなら」
「……………」
「だから、私の事は早く忘れて。でも、時々は思い出してくれたら嬉しいな。小さな事で良いの、時々思い出してね」
美咲は最後まで微笑みながら、息を引き取った。
美咲が二十三歳になったばかりの頃だった。
美咲が死んでから、僕は泣いてばかりいた。
悲しみに明け暮れて、美咲の後を追う事ばかり考えていた。
だけど、死ぬ事を選ばなかったのは、僕が夢を叶えていないからだ。
作家として成功する事――それが僕の夢。そして、その所為で美咲は死んだのだから。
だから、僕は小説を書き続ける事を選んだ。
美咲が死んだ意味をなくしたくはなかったんだ。意味のある事にしたかった。
その為に、今も躍起になって書き続けている。
今だに夢は叶えられないけれど。
僕は夢を叶える事が出来たら美咲の後を追おうか、と今でも思っている。
美咲はああ言ったけれど、やっぱりもう幸せなんて見つけられないんだ。
美咲がいないなら、この世界に幸せなんてある筈がない。
心にぽっかりと穴を開けたまま、生きていくしかない。 |
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美咲と付き合い始めて半年、僕達は結婚した。
それが短いのか長いのかは分からない。ただ、学生結婚に踏み切ったのは、僕の人生に於いて最大の冒険だった。
本当は大学を卒業してから結婚するつもりだったんだ。学生の身分で美咲を幸せに出来るかなんて分からなかったから。
早く結婚したい――そう言ったのは美咲の方だった。その理由を知ったのは、かなり後になってからだった。
美咲との生活はやっぱり厳しかった。僕も美咲も学生だったから、二人でアルバイトをして生活を賄った。
貯金どころか、少しの贅沢も出来ない状態が続いた。
それでも、僕は幸せだった。おそらく美咲も同じ気持ちでいたと思う。
そんな頃、僕は日光出版のコンクールで賞を取った。
大賞ではなかったけれど、それから日光出版で書かせてもらえるようになった。
僕はバイトを辞めて、作家と大学生という二つの生活を送るようになった。
バイトは続けた方が生活は楽になったかもしれない。
だけど、バイトを辞めて創作活動に専念する事を強く奨めたのは美咲だった。
「生活が苦しいなら、私が仕事を増やすわ。あなたは小説を書くべきよ」
そう言われた時、僕は何の疑問も持たなかった。
その時、気が付いていれば良かったのに…。美咲はその時既に、かなり無理をしていた事を。
生活は少しも楽にはならない。
幾ら小説を書いても売れない僕は悩んでいた。
売れないなら諦めるべきか、それとも売れるような小説を書けば良いのか――それが自分の書きたいものではなくても。
そんな事を口にする僕を、美咲は優しく嗜めた。
「暁はそのままで良いのよ。そのままで、自分の書きたい事を書いていけば良いのよ」
美咲はいつだって優しかった。大きく強い心で、僕を包んでくれるようだった。
そんな美咲に僕は甘えきっていたと思う。
僕が大学卒業間際という時、美咲はバイト中に倒れた。
駆けつけた病院で担当医は、美咲はもう長くはない、とはっきり僕に告げた。
その時初めて知ったんだ、美咲が心臓を患っている事を。
小さい頃からの病気で、本当は二十歳まで生きられるか分からなかった身体なのだ――お義母さんにそう聞かされた。
それまで僕にその事を言わなかったのは美咲に頼まれたからで、美咲の好きなように生きて欲しかったから結婚も反対しなかったのだ、とお義母さんは涙ながらに語った。 |
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美咲は優しいけれど、強い人だった。
お人好しと言えば聞こえは良いけれど、気が弱くて嫌な事を頼まれても引き受けてしまう僕と比べて、美咲は違う。
嫌な事は嫌だと言う、だけど相手に不快な思いをさせないような心配りが出来る人だった。
そんな美咲に僕は惹かれた。これが恋だと気が付くのに、そう時間はかからなかった。
好きだと言葉にするまでは時間がかかったけれど――小説を書く事しかない僕と、優しくて気立てが良くておまけに美人な美咲。どう考えたって不似合いだ。
それに、美咲を狙う男は沢山いた。美咲目当てでサークルに入った男だって沢山いたんだ。
駄目でも良い、告白しよう――そう決めた僕は美咲を食事に誘った。
文学の面では美咲とは気が合う方だったからか、美咲は快く誘いに乗ってくれた。
食事中は凄く楽しくて。あの作家さんの小説は良いだとか、この小説の結末には少しがっかりしただとか――話す事は小説の事ばかりだったけれど、美咲も楽しそうだった。
僕は美咲の事ばかり見ていた。仕草や透明感のある声や小さな気遣い。どれを取っても、美咲が好きだと確信した。
この人と一緒に時を過ごせたらどんなに幸せだろう、とその時既に幸せ気分でそう思ったのは今でも忘れられない。
美咲を家まで送る帰り道、僕は美咲に好きだと告げようとした。
なかなか言葉が出て来ない。気が付けば、美咲の家まであと少しだった。
言うなら今だ、こんなチャンスは二度とないかもしれない。そう思って、僕は掌をぎゅっと握り締めた。
「僕、濱田さんが好きなんです」
余計な言葉はいらない。どうせ振られるなら、男らしくはっきり告げて振られようと思った。その方が諦めがつくから。
美咲は驚いたようで大きく目を見開いてから、頬を真っ赤に染めた。
今までに見た事がない表情をしていた――美咲はいつだって淡く柔らかい笑みを浮かべていた。そんな美咲が頬を赤らめながら、戸惑うように目を泳がせている。
それが何を意味しているのか分からない僕には、不思議な光景に思えた。
「…私も瀬野君が好きです」
暫く立ち止まったまま沈黙が続いてその末に返ってきた答えに、僕は夢を見ているのかと思った。信じられなかったんだ。
それから、この状況を理解した僕はこれ以上の幸せなんてない、とそう思った。 |
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商店街の夏祭りは金土日の三日間開催らしい。
あれから、さゆりちゃんと話し合って一番空いてる筈の金曜日に行く事にした。
さゆりちゃんはきくいちの出店の店番をしなくちゃならないし、僕は人混みが嫌いだし、一番空いてる日が良いと思ったんだ。
おばちゃんにも許可を貰って――当初の予定ではさゆりちゃんは三日とも出店に入る予定だったらしいから――準備はばっちりだ。
「瀬野さん、浴衣着る?私も着るから、一緒に着よ!」
にこにこ、と笑顔でそう言われて、僕はそれすらも拒む事が出来なかった。
拒んだらさゆりちゃんを傷付けてしまうようで。
人を傷付ける事が怖かった。
夏祭り当日。
僕は桐のタンスに閉まってある筈の浴衣を出そうとしてた。
もう開ける事はないと思っていた桐のタンス。ここには美咲との思い出の品が詰まっている。
開けるのには少し勇気がいる。美咲との思い出まで引き出してしまうから。
軽く深呼吸をしてから、僕はタンスの引き出しを引いた。
僕の浴衣はタンスの下の方に入っていた。
丁寧にろ紙で包んだのは美咲だ。
ろ紙を開いてみると、綺麗な濃い紫色の浴衣があった。
「ああ…、変わらないな」
色褪せる事なく、紫色を保った浴衣。綺麗だな、と素直に思った。
もう見たくないと思っていたけれど、物には罪はない。そして、思い出も綺麗なままだ。
ただ、もう一枚の浴衣を着る人がもういないというだけ。そう思うと悲しくなる。
何で僕を置いていったんだ、美咲は。
いつまでも僕の傍にいてくれれば良かったのに。それが出来ないというなら、僕も連れて行ってくれたら良かったのに。
そうしたら、僕はこんな思いをせずに済んだのに。きっと今も幸せでいられたのに。
苦しいよ、美咲がいない現実は。
怖いんだ、生きていく事が。
どうやって生きていけば良いのか、分からなくなる。
それでも、僕は苦しいまま生きていかなくちゃならなくて、自然と時間が流れていく。
僕が意思とは関係なく時間だけが過ぎて、気が付けば三年が経っていた。
だけど、昨日の事のように思い出せる。あの日の、美咲が死んだ日の事を。
美咲と知り合ったのは僕が大学一年の時のだ。
子供の頃から作家志望だった僕は、誘われるまでもなく文芸サークルに入った。
そのサークルには一つ年上の美咲がいた。 |
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終わりにする、とさゆりさんは言った。それほどまでさゆりさんの夢への思いは強いんだ。
それでも、どうしても行かせたくなかった。
「ホントはね、好きになるつもりなんかなかった。恋なんかしてる暇ないんだから。私にはやらなきゃいけない事が沢山あるんだから」
「…でも、瀬野さんが好きなんでしょう」
「うん…、それでも私には歌を捨てられない」
「この町にいたって、歌は歌えます」
「うん、私もそう思った。でも歌と瀬野さん、どっちが大事?って考えるようになっちゃったの」
そんな事は選ぶ必要はない、この町にいれば。
だけど、前よりも夢に近づいた事で、さゆりさんはそれを選ぶしかなくなってしまったんだろう。
もっと先に進む為に。
さゆりさんを幸せに出来るのは俺じゃない。でも、瀬野さんでもないんだ。
恋愛じゃさゆりさんを幸せにする事は出来ない――だから、さゆりさんを止める事は出来ない。
だから、さゆりさんは東京に行くと言う。
…もうどうしようもない。
「私は夢を諦めたくないよ。瀬野さんの事を諦めてでも、歌手になりたいの」
「……………」
「だから私、行くよ」
結局俺にはどう言っても、さゆりさんを引き止める事は出来なかった。
いや、きっと誰にも引き止められない。誰が何と言おうとさゆりさんは行くんだろう。
せめて俺にも夢と呼べるものがあったら。それを叶える為に努力する力があったら、さゆりさんの気持ちが分かったかもしれないのに。
何もない俺にはただ、心にぽっかりと穴が開いたような寂しい気持ちになっただけだった。
俺は?さゆりさんが行く前に言わなくて良いんだろうか?
さゆりさんが好きだった――そう言わなくて後悔しないのか?
後悔…するかもしれない。だったら言うべきだ。なのに、言葉が出て来ない。
さゆりさんを困らせたくないから?…いや、俺が想いを告げたところでさゆりさんの決意は変わらない筈だ。それなのに。
…どこまで意気地のない男なんだ、俺は。
「それにさ、瀬野さんには私より良い人がきっといるよ。そんな気がするんだ」
そう言ってにっこり微笑んださゆりさんに、俺は結局何も言えずにいた。 |
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さゆりさんは俺の言葉を遮って、しっかりと俺の目を見つめる。
さゆりさん独特の意志の強そうな瞳に、俺は息を詰まらせた。
「伊吹君には先に言っておこうと思ってたんだけど…。私ね、秋になったら東京に行くの」
告げられた衝撃的な言葉に、俺は大きく目を見開いた。
何だって?秋になったら東京に?さゆりさんが?
どうして…。この町で暮らしたって良いじゃないか。
この町は田舎の何もない町だけど、温かさがある。
東京を馬鹿にする訳じゃないけど…。便利な場所が沢山あって、沢山の人も物も溢れてるんだろうけれど。
田舎のこの町で暮らす人々は都会に憧れて、東京に行く人が多い。
だけど、俺はこの町が東京に劣るとは思えない。
何もない――確かにそうだけど、この町にだって良い所はある。
さゆりさんはそれを分かっていると思っていたのに…。
「どうして…ですか?」
「東京に行って、プロのミュージシャンを目指すの。プロになる為にはここじゃ駄目なの」
そうだった、俺はすっかり忘れていた。
さゆりさんの夢はプロのミュージシャンになる事だ。
その為には確かにこの町では駄目だ。
さゆりさんはいつだって夢を追いかけている――分かっているつもりだった。だけど、ちっとも分かってなかったんだ。
だって、さゆりさんが『東京に行く』って言った事に、こんなにも驚いている俺がいる。よく考えたら、不自然な事ではないのに。
だけど…嫌だ。引き止めたかった。何とかして、どうしても引き止めたかった。
「…瀬野さんの事は?思い出だけ作って、それで良いんですか」
瀬野さんの名前を出して引き止めようとする俺は、さゆりさんよりずっとずるい。
引き止めたいなら、『行くな』と言えば良い。俺が行かないで欲しいなら、そう言えば良いだけだ。
だけど、言えなくて――俺にはさゆりさんを引き止めるだけの勇気がないから、瀬野さんの名前を口にした。
こんなのは大人になったからでも何でもない。ただ俺が臆病なだけだ。
「うん、分かってるよ。だから私、夏祭りで瀬野さんに言うつもり。好きって言うの」
「でも、だったら…」
「瀬野さんと付き合いたい訳じゃないの。答えなんてもう分かってる」
「……………」
「終わりにしたいから言うの。じゃなきゃ、東京に行けないから…。『好きでした。今までありがとう』って言って終わらせるの」 |
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でも、さゆりさんが嫌いだなんて事ないだろうし…。だとしたら、きくいちの常連なんかになってないだろうし。
嫌いだったら顔も見たくない筈だ。俺が前に瀬野さんに対してそうだったように。
だったら、やっぱり別の理由があるんだろうか…。
「瀬野さん、ちょっと嫌そうだったよね」
さゆりさんは少し沈んだ声でそう言った。視線は少しだけ俯き加減だ。
気が付いていたのか…。瀬野さんは顔に出していないつもりだったろうけれど。
さゆりさんがそれだけ瀬野さんを見ているという事だろうか。
「…そんな事ないと思いますけど」
「良いよ、分かってるから。でも、瀬野さんは絶対に断らないと思ったの。そこに付け込んだの」
「……………」
「…いつからそんなずるい事するようになったんだろ、私。昔はもっと素直に恋愛出来たんだよ?駆け引きみたいな事出来なかったのに…」
さゆりさんは少し寂しそうにそう言うけれど、それはずるいんじゃないと思う。大人になれば、仕方がない事だ。
子供の頃のように、好きだと思ったら好きだと言って、失恋したら別の人を好きになって…なんて事が出来なくなる。
相手に想ってもらえなくても、簡単には引き下がれない。
だからこそ、一人の人を好きだと思ったら躍起になって好きになってもらおうとする。その為に駆け引きも必要だし、嘘も吐かなくちゃならない。努力も必要だ。
それがずるい事だとは、俺は思わない。それをずるいと言ってしまったら、大人になる事が悲しい事になってしまう――いつまでも子供でいられない事が悲しい時もあるけれど。
だから、さゆりさんが昔と恋愛の仕方が変わってしまったというなら、それだけ大人になったという事だ。
「でもね、私どうしても瀬野さんと一緒に行きたかったの」
「…夏祭りに?」
「ううん、夏祭りじゃなくても別に構わないんだけど、何でも良いから瀬野さんとの思い出を作りたかったの」
思い出を…?
まるでこれが最後みたいじゃないか。
瀬野さんと共有する時間なんて、幾らでも作れるじゃないか。時間なんて沢山あるんだし。
学生時代なら卒業までに…とか色々考えなきゃいけないけれど。
まさか…さゆりさんは瀬野さんの事を諦めようとしているんだろうか?
「さゆりさん、まさか…」
「伊吹君、あのね」 |
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その日の閉店後、俺はさゆりさんを家まで送る事にした。
今日は店長が休みだったから、閉店作業に時間がかかったからだ。
大きな事件なんて聞いた事がないくらい、田舎のこの町は治安はかなり良い。
それでも、夜の十時過ぎに女性一人で歩くのは危ない気がする。
まして、この辺は夜遅くまで営業している店は少ないから、夜は暗い。街灯もあまりないような所だから。
あれからさゆりさんは上機嫌で、今も鼻歌混じりで俺より少し先を歩いている。
上機嫌の訳は勿論瀬野さんだろう。夏祭りを一緒に回れる事になったのがよっぽど嬉しいらしい。
恋をしているさゆりさんは綺麗だと思う。
少し前まではそんなさゆりさんを見ているのが辛かった。
さゆりさんを綺麗にしているのが俺じゃない事に、嫉妬ばかりしていた。
なのに、今は不思議とそんな気持ちにならない。綺麗なさゆりさんを、ただ綺麗だなと見つめる事が出来る。
それは瀬野さんのおかげなんだろう――瀬野さんが良い人だって分かったから。
あの人ならさゆりさんを幸せに出来るかもしれない。そんな事を勝手に思って、俺は自然と笑みを浮かべていた。
「何笑ってんのよー」
さゆりさんは振り返って、少し不貞腐れたような顔をした。
自分の事を笑ってると思われたらしい。
それはあながち間違ってはいないけれど。
「いえ…。良かったですね、瀬野さんとデートする事になって」
「やだーっ、デートとか言わないでよっ。そんなんじゃないってー!」
ばし、と背中を叩かれる。ちょっと痛い…。
でも、さゆりさんが嬉しいそうに笑っているから良いか、なんて思う。
「いや、デートでしょう。男と女が二人で夏祭りに行くって言うのに、デート以外の何物でもないですよ」
「止めてってば!…でも、うん…、嬉しいな。ありがとね、伊吹君のおかげだよ」
「え?俺何かしましたっけ?」
「もー、忘れちゃったの?『行ってみれば?』って言ってくれたじゃない」
そういえばそうだったな…。瀬野さんが迷ってるみたいだったから。
でも…、あの時の瀬野さん、少しおかしかったような気がする。
人混みが嫌い、なんて言ってたけれどそんな理由で断るだろうか、普通…。用事があるって言われた方がまだ分かる。
何かあるんだろうか…。夏祭りに?それともさゆりさんに? |
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