キリルメルカシュエリヴィオラクラウス

鏡の中のリアル

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交換日記 nikkijam

2008/09/01(月) 20:59:25 カシュエリ
タイトル エゴイストのシンパシー 4 今日の気分終わり


 そうして寮までほど近い場所に来たその時に。仄かな光を落とす常夜灯の下で、不意に視界に入ったのだろうか、それまでメルばかりを見ていたキリルが、ヴィオラの顔に目を留めた。

「普段はあんなに愛想が無いのに、寝顔だけはずいぶん可愛らしいんだな」
「キリル」
「おやメル。妬いてくれるのかい?」

 軽口と、どこか咎めるようなメルの声。それに楽しそうに、キリルが切り返す。
 そんな二人を他所に、瞳を落とせば、安らかな闇の中で確かに、ヴィオラの寝顔はあまりにも愛らしかった。
 閉じられた目蓋から覗く長い睫と、小さな蕾のような唇。漉した絹のような豊かな髪。
 御伽噺の主役にでもなれそうなその顔立ちだけを見れば、男言葉で感情を見せず話す普段のヴィオラを、誰が想像出来るだろう。だが、事実として彼女はそうなのだ。
 それはヴィオラ本来のものなのか、何かに歪められてそうなったものなのか。

 その答えは彼女の首許で鈍い光を放つ銀色の楔の奥にあるのかもしれず、或いはメル・ウィンダヒ達は既にそれを知っているのかもしれない。だが、その時の俺はその答えを求める気にはなれなかった。あんなに優しい子守唄を歌いながら、ヴィオラの顔が明らかな苦悶に歪んでいたそのわけを。
 あの歌声を聞きながら俺の心は、今はもういない男のことを思い出し、淡い追憶とひそやかな痛みに苛まれた。
 癒しと辛苦、相反する二つの表情を持ち合わせたヴィオラの歌う姿は、俺にとっての優しさと痛みが共にあることを教えるようで。
 だから自分はあの時のヴィオラに、どこかで己を重ねていた。
 流行の恋歌に想いを重ねる少女のように、過去のいつかで流れていた懐かしい牧歌に浸る老人のように。
 自分と全く関わりのない誰かが、まるで自分の感情を代弁してくれているかのような錯覚すら覚えて。

 それは勝手に重ね合わせた、感傷にも似た一方的な共感だった。



2008/09/01(月) 20:58:35 カシュエリ
タイトル エゴイストのシンパシー 3


 彼女達の仲はそれほどに、俺の窺い知れないぐらい深く結びついているのかもしれない。
 だが、実際問題として上背や体格の関係で、メルがヴィオラの体に負担を掛けずに運んでいくのは難しいように思えた。
 メルが自分の体を磨くことを怠らない人種だということは聞いている。ヴィオラも見る限りでは線は細い。
 それでも、意識を手放した人間の体というものはそう軽くは無い。ヴィオラを抱いている他ならないメル自身が、今それを感じているはずだった。

「それに、返せることは返せるうちに少しでも返したいんです」

 整った条件と、そして俺には、もっともらしい理由があった。

「彼に任せていいんじゃないのか、メル。ヴィオラは君が一人で背負うには、きっと少しばかり重過ぎる」

 時間も時間で、あまり長居をしていたいとは思えないのだろう。促したキリルの声はそれでも、どこか静かで優しげだった。
 メルはなおも少しの間考えるようにヴィオラを眺めていたが、やがて顔を上げると真っ直ぐに俺を見据えた。

「そうね……。ここでヴィオラが目を覚ますまで待つわけにもいかないし。お願いします、カシュエリさん」
「はい。眠り姫を起こしてしまわないように、丁重にお送りさせて頂きますよ」

 正面からそれを受け止めると、少しだけ表情を緩める。
 大切な宝物を受け取りでもするかのように、メルが惜しむように手を離したヴィオラを抱きとめて。
 片手で背中から肩に掛けてを、もう片手を座ったままのヴィオラの体の太腿と椅子の間に差し込んで一息に抱え上げる。
 傾げた頭の重みが俺の肩に逃げるように体を寄せてやると、彼女の柔らかい髪が俺を擽る。
 思ったよりもやや軽めだ。それでも確かな人の重さと温かさを抱えていることを確かめて、なぜか自分はどこかで安心した。

「意外と、手馴れているんだな」

 一連の流れを脇で眺めていたキリルが、冷やかすような色を交えて言う。

「酔いつぶれたラウルをこんな風に運んだことも何度もありますから」
「なるほど。それは想像したくない絵だ」

 それに苦笑いで応じると彼は小さく肩をすくめ、その隣でメルがおかしそうに口元を押えた。
 そのまま校舎を出て、月の明るい夜の下を並んで暫く歩く。幸いにも何も起こる気配は無い。


2008/09/01(月) 20:57:25 カシュエリ
タイトル エゴイストのシンパシー 2


 他人事のような口ぶりのキリルに、俺はまだメルの腕の中に抱かれたままのヴィオラに目を遣って、ほんの少しだけ気の毒に思った。
 憑かれる、ということについてはキリルもメルも既にその被害にあっているのは同じだろうが、女性に男の悪魔、という異性どうしの取り合わせはより神経に障るものがあるだろう。もっともそれも、明日は我が身とも限らないわけだが。
 そんな考えが表情に出ていたのかもしれない。

「次は君の番かもしれないな。楽しみか?」
「ええ、書物を紐解くだけでは知り得ない、貴重な体験が出来そうです」

 横顔を覗かれながら、不意にキリルに問いかけられ、俺は曖昧な笑みを返した。

「仲良くしてくれる方だといいんですけどね」
「君の神様にでも、よく頼んでみるといい」

“君の神様は運命や悪魔に対して絶対の力を持つんだろう? 聖人なんて二つ名を持つ君の頼みなら、彼も色々と気前良く計らってくれるんじゃないのか”とでも続きそうな。
 含みのある、何よりキリル自身の信仰に対する立ち位置をそれとなく匂わせるやや毒の効いた冗談だったが、今はそれを素直におかしく思った。

「そうですね。家事と読書好きな、快活でエスプリの利いた男の方を手配してくれるように、後でお祈りしておきますよ」
「そんな悪魔が憑いてくれるなら、アカデミー中のご令嬢がこぞって七不思議の調査に乗り出してくれそうだな」

 違いない、と小さく俺達が笑い合ったところで、メルの浮かない溜息が聞こえた。

「ダメね。下手に起こさない方がいいのかしら」

 手を離せばそのまま床に転がり落ちてしまいそうなヴィオラを抱きとめその頬に触れながら、困ったようにメルが俺達を振り返る。

「俺が運びましょうか」

 さして迷うことも無く、俺はその言葉を口にしていた。

「え? ですけど」

 幾らかの不安を籠めつつ、メルが意図を訊ねるような瞳を俺に向ける。

「こう見えて人並み程度には力はあるんですよ。一応体術で単位を取っているぐらいですし」

 不安の一部を払うように微笑をつくって見せても、メルはどこか迷ったようにヴィオラの顔に視線を落とした。
 きっと、メルにしてみれば目を覚まさないなら覚まさないで、自分の手でヴィオラを運んでやりたい、というのが正直なところなのだろう。


2008/09/01(月) 17:12:30 カシュエリ
タイトル エゴイストのシンパシー


「ヴィオラっ!」

 そこだけが時計の針を抑え付けたかのごとく緩慢に、ピアノ椅子の上で支えを失ったように、くずおれるヴィオラの体を、演奏中の彼女をすぐ傍で見守っていたメルが抱きとめる。
 そして優しい子守唄が途切れるのと同じく、突如として姿を現した彼の者は、グランドピアノを己が王座か何かのように悠然とその上に足を組み、ヴィオラと、彼女に呼びかけるメルの姿を見下ろすと、その唇を傍目からも明らかなほどに歪ませた。
 その背に見えるのは、反逆天使のものであるかのような六枚の黒い翼。注視に気づいたのか、『彼』が鬱陶しげに俺とキリルの方を一瞥する。短い白銀の髪に、冷めきった鉄のような銀灰の瞳。
 けして明るいとは言えない室内でも、そのイメージは鮮烈に俺の中に焼き付いて、なのに瞬きをしたほんの一瞬の後には、濁った霧が晴れるようにその姿は消えていた。

「……君にも見えたか?」
「ええ、三対の黒い翼を持った白銀の髪の男が」

 俺と同じ場所に視線を置いたまま、キリルが確かめるように問い掛ける。
 さっきまで目にしていた、その異常なほどに鮮明だった虚像の形をなぞるように答えてみれば、網膜ではなく、意識の深い部分に描かれるようなその姿は確かに、『イリヤ』や『リアル』と同質の物だったように思えた。

「なるほど。僕だけが見たのではなければどうやらこれは、“当たり”だったようだ」

 また一つ七不思議を解き明かし、呪いからの解放に近づいたらしいというのに、さして嬉しくも無さそうにキリルは言った。
 彼が何を思っているのかは何となく想像がついた。それは言い換えれば俺達と行動を共にする“悪魔”が増えるということでもあり、そして先ほどのどうでもいい物を見るような『彼』の眼差しを思い返せば、あまり仲良く出来そうな相手だとは考えにくい。
 さっさと姿をくらましてしまったのも、『彼』を喚んだヴィオラが意識を失ってしまったからだとすれば、その内面も自ずと察しがつく。

「『彼』はこれから、彼女に憑く、ということになるのでしょうか?」
「経験から言わせて貰うと、基本はそういうことになるらしい。もっとも、縛られる、というほど不自由なわけではないみたいだけどな」


2008/09/01(月) 02:35:11 ヴィオラ
タイトル おやすみなさい よいゆめを5 今日の気分



「ヴィオラっ!!」
 異変に気付いたメルが私へと駆け寄る。
 苦悶する私にカシュエリは何事かと目を見張った。

「ヴィオラ、やめてっ。もう、いいから」
 メルの静止に私は首を振る。

 もう少し、もう少しなのだ。

 痛みに首を掻き毟りたい衝動を堪えて、鍵盤を叩く。
 こんな簡単な曲さえも、兄の様に完璧には弾き熟せない。ともすれば外れそうに成る旋律を繋ぎとめる手立ては、歌うしかないのだ。
 譜面を見て口ずさむことで、ピアノの鍵盤を指が辿りやすくなる。

(これで…最後……)

 最後の鍵盤を押さえた瞬間、意識が遠のく。

『演奏技術の無さを歌でカバーときたか。まあ、大目に見てあげよう』

 兄の声が聴こえた様な気がして、薄く瞼を開く。
 たった今まで私が弾いていたグランドピアノに長い足を悠然と組んで腰掛けている銀髪の……あれは……。

「……にい、さ……」

 遠ざかる意識の中で、兄の姿を見た様な気がした。


2008/09/01(月) 02:34:14 ヴィオラ
タイトル おやすみなさい よいゆめを4 今日の気分



   おやすみなさい よいゆめを
   どうか わたしの このむねで

   おやすみなさい よいゆめを
   どうか わたしの このうでで

   まぶたに おとした くちづけが
   ゆめのくにへと いざなう あいず
   
   おやすみなさい よいゆめを



 それは兄が幼い私を寝かしつける時に歌ってくれた子守唄だ。
 今でも鮮明に覚えている。

 私の知っている子守唄とは旋律が全く異なるのだから、この歌詞はきっと間違っているのだろう。
 けれど、こうして口ずさんでもあまり違和感はない。まるでこれが正しい歌の様にさえ聴こえてしまう。
 恐らくメルが歌って貰っていた子守唄でも、このピアノの旋律に合わせて歌ってみたら嵌るのではないだろうか。勿論、キリルでも、カシュエリでも。
 子守唄の長さによっては寸足らずになってしまったり、音数が合わずずれてしまったりするのだろうが、そんなズレを気にさせない何かがある旋律だ。

「く…ぅ」
 私の歌声に反応して首輪が軋む。
 異端諮問官が魔法をかけたその首輪は、私の魔力を封じ込めるものだ。私の場合は声が魔力の素だ。だから例えどんなに修練しても、詠唱を省く事は出来ない。メルの様に指を鳴らしただけで温度を調整する事が出来るようにはなれないのだ。
 そして私の魔力が最も高まるのが、歌を歌う時だ。自分では制御できない。魔力を解放せずに歌えればと思うのだが、それはどうしても叶わない。
 だから異端諮問官は私の歌声を封じた。禁律と呼ばれる領域に足を踏み入れつつあった、その歌声を。
 私が歌えば(勿論、歌わなくても魔法の詠唱をすれば同じ事であるが)、首輪は容赦なく私の首を締め付ける。


2008/09/01(月) 02:33:03 ヴィオラ
タイトル おやすみなさい よいゆめを3 今日の気分



 音楽室のピアノの旋律と『悪魔賛歌』の楽譜を照合して合っている音に印をつけた。合っていたのは、『悪魔賛歌』に特徴的な恐ろしい数のおたまじゃくしが連なった連符ではなく、4分音符以上の長さの音符の一部だけだった。
 兄はその稀な音符と、叩きつけるようなピアノの弾き方だけを頼りに『悪魔賛歌』を弾こうとしているところまで辿り着いたと言っていた。
 私は最初、ピアノの技術が伴わないから、この曲にあっては長音の四分音符以上の長さの物しか正しく弾けていないのだと思った。
 しかし、実際に自分がピアノの練習を始めて、連符の中に突如として混じった長音は意外に難しい事に気付いた。短音に慣れてしまった指はどうしても鍵盤から指が浮いてしまう。かと言って、長音に集中すれば連符は聴くも無残な旋律を生み出す。

 私が今、譜面台に置いたのは合っている音だけを拾い上げて書き直した楽譜だ。
 見開き1ページで終わる短い曲。
 音の飛びは少なく、緩やかで単調。流れるように柔らかな旋律。

「これは……子守唄?」
 メルが呟く。

 そう、恐らく感じていることは皆一緒だ。
 これは子守唄の旋律。
 初めて聴く旋律だ。けれど、分かってしまう。これは子守唄なのだ、と。
 それは誰もが皆、似たような旋律を記憶の奥底で抱いているからだ。
 揺り篭の揺らめきに似たこの旋律を。

「…っ」
 こんな緩やかな旋律なのに、やはり初見で弾くには無理があったのか。
 縺れかけた指は何とか鍵盤を離れずに済んだ。
 音を危うく外し掛けた時、思わず私はその旋律を口にしていた――。


2008/09/01(月) 02:31:25 ヴィオラ
タイトル おやすみなさい よいゆめを2 今日の気分



 何時も通りにピアノは鳴り止み、私達は立ち上がった。
 舞台袖で演奏会の出番待ちをしている様な心情だった私とは違い、キリルとメルはただただ苦痛に耐えていた様だった。それでも何がおきても直ぐに対処出来るように剣から手を離さないのは流石というべきか。

 窓から差し込む月明かりに青白く照らされた音楽室のグランドピアノは、床に長い影を伸ばしている。蓋が開いており、たった今まで誰かが弾いていたかの様だ。まさに噂通りである。

 音楽室の扉を締め切り、私はグランドピアノの椅子に腰を下ろす。

「ヴィオラ、貴女はピアノに集中してね。周りのことは気にしなくていいから」
 周りの事というのは、見回りに来た先生を追い返すという意味ではない。その意味合いも無くも無いのだろうが、一番の問題はシャドウに襲われた場合のことだ。
「……分かった」
 無理だけはしないで欲しいという言葉を飲み込み、私は頷く。

 もう後には引けない。

 私は譜面台に楽譜を置いた。

 兄もこのピアノを弾いたのだ。兄の長い指もこの鍵盤に触れたかと思うと感慨深い。
 音楽室には何度も練習に訪れた。その度にこのグランドピアノを横目に、練習用のピアノの鍵盤を叩いていた。 
 幽霊が弾くと恐れられているこのグランドピアノも、兄が弾いたものだと思うと愛おしくて堪らない。

 ゆっくりと鍵盤を押した私に、三人が動揺した気配を背中で感じた。
 それもその筈だ。
 私の奏で始めた旋律は『悪魔賛歌』には程遠いものだったのだから。

 だけど、これが私の出した答えだった。
 兄が間違えたのは選曲か、演奏か。
 クラウスにその疑問を突きつけられ最後の最後まで迷っていた。兄がどちらを間違えたとも信じられなかった。
 けれど、どちらかを選ばなければならなかったのだ。

 決め手になったのはカシュエリの一言だった。
 「余程の耳の持ち主でなければこれは聴き取れませんよ」と。カシュエリが私の葛藤を知る筈もない。だから彼は何気なく口にしただけに過ぎないのだろう。
 だが、その一言は確かに私の背中を押し、そして救ったのだ。


2008/09/01(月) 02:28:50 ヴィオラ
タイトル おやすみなさい よいゆめを1 今日の気分



「ヴィオラ?」

 メルに名を呼ばれ、私は我に返った。
 すっかり見慣れた気遣うような色をした紫の瞳が目の前にあった。

「大丈夫?もし調子が悪いなら……」
「否、大丈夫だ」
「でも……」
「本人が大丈夫だと言っているんだから、大丈夫だろう。ヴィオラがぼうっとしているのは今に始まったことじゃないし」
「キリル」
 メルに軽く睨まれ、キリルは面白く無さそうにそっぽを向いた。

「本当に大丈夫ですか?」
「大丈夫だ。話はちゃんと聞いていなかったけど」
 やっぱりか、と言わんばかりのキリルの隣で、カシュエリが微笑む。
「良かったら後で掻い摘んで説明しますよ」
「…助かる」

 メルはちらりと懐中時計で時刻を確認した。
「……そろそろだわ」

 メルの声に促されたわけでもないだろうに、針が12を指したと同時に隣室から夜毎の独奏会が始まった。

 地を這う様な重低音。
 苛立ちを抑え切れずヒステリックに鍵盤を叩きつけているだけの様な纏まりの悪い連符。
 時折、悲鳴の様に音を割る高音。

「酷いな」
 耳が肥えているのだろうキリルは露骨に顔を顰めた。
 音量は然程大きくは無いのに耳を塞ぎたくなる程の不協和音。不快な戦慄にメルもまた頷き、片耳を覆った。
「これは…『才能の無さを悔いて自殺を図ったピアニストが夜毎、ピアノを弾きに現れる』という噂が広がるのも頷けるわ」
「才能が無いとかいうレベルじゃないな。ピアニストを名乗るのもおこがましい。狂人としか言えないよ」
 メルとキリルは声を潜めて会話をしながら、不快さを耐えている。

 兄はこのピアノを全て聴き終えた後に、『悪魔賛歌』を弾いたそうだ。
 同じ条件でピアノを弾いた方が良いだろう。
 この哀れなピアニストの独奏が終わるまで10分強、私達はこれを聴きながら過ごさなければならない。

「よくこれが『悪魔賛歌』だと分かりましたね」
 私の手元の楽譜を覗き込み、カシュエリが感心したような声を出した。
 見事なまでにピアノは音を外している。ピアノの音を拾い、楽譜と照合すると合っている音は1小節に1つか2つしかなかった。

「私ではなくて、兄様……私の兄が気付いたんだ」
「それは凄いですね。余程の耳の持ち主でなければこれは聴き取れませんよ」
「そう、だな」

 私は兄から預かった楽譜を胸に抱き締めた。


2008/09/01(月) 00:08:20 ヴィオラ
タイトル 最後の夜に3 今日の気分



 ぽつり、ぽつり。

 ついに泣き出し始めた空に、クラウスも「降ってきてしまったね」とベンチから立ち上がった。

「選曲ミスか、演奏ミスか。どちらか確かめる必要があると思う。本当は一緒に行ってあげれればいいんだけど……もう、無理だな」
「……嗚呼」
 時刻は4時になろうとしていた。ピアノが聴こえると言われていた深夜は過ぎてしまっている。

「寮の前まで送るよ」
 何時もよりも更に口数の減った私を寮の前まで送り届けたクラウスは、別れ際、何か言いたそうにしていた。口を開きかけ、けれど頭を振って、言葉を口にするのを止めてしまった。

「おやすみ」
「……おやすみ」

 何時もと同じ様に別れの挨拶を交わし、クラウスと別れた。
 何時もと同じ朝を迎えるのだと信じていた。

 クラウスが休学したと知ったのはその翌々日の事。

 私は重大な思い違いをしていたのだ。

「本当は一緒に行ってあげれればいいんだけど……もう、無理だな」
 それは「今夜は」という意味ではなかったのだ。


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