過去の日記
2010年02月(6)
2010年01月(4)
2009年12月(2)
全て表示
お気に入り
ログサイト
nikkijamおすすめ
占いカフェ
懸賞ざくざく
人気ランキング
メニュー
プロフィール
メール送信
携帯へURL送信


|
| タイトル |
10-10.悪ノリ |
今日の気分 | 終わります |
|
|
比嘉さんは、と、どこか険しい目をして柿崎さんは口を尖らせた。
「私がいなくなったあと、松見さんとくっついちゃったり、するんでしょうか」
「それはない。断言できます。結ばれたい相手なら他にちゃんといるし、そもそも俺にその気が全くないのになんでこうも松見さんが話に出てくるのか、理解できないのですが」
大げさに表情をつけて説明したら、やっと柿崎さんも汲んでくれたようだ。
「比嘉さんて変わってますよね。ふつうあそこまで迫られたら、なびいても不思議じゃないのに」
「知らなかったかもしれないですけど、俺はこうみえて頑固なんですよ」
店を出ると外は薄闇に包まれていた。遠くの繁華街のネオンと月、それに星が明るい。
夕飯でも食べていこうかという話になったところで、俺の携帯に着信があった。
見覚えのない番号。
完全に忘れていた。
柿崎さんと会うまえに女の子二人組を観光案内していたのだった。二人組は食事を終えたから宿まで送ってくれと言っている。
俺は頭の中で位置関係を確認した。二人組を宿まで乗せていってここまで戻るのに四十分はかかる。
あるいは、柿崎さんを待たせるのではなく助手席に乗せ、一緒に行く方法もある。
「すぐに行きます」
車を前にして電話の相手に返事をしたものの、俺は言葉通りには動かなかった。携帯を折りたたむ。振り返れない。
いや、深刻になることはない。
「柿崎さん」
「はい?」
ドアを開けて助手席を差ししめしながら、俺はかしこまったふうに言ってみた。
「今から俺の職場にご案内したいなーと思うんですが、いかがでしょうか」
柿崎さんはあっさりと乗ってきた。ドアを閉める。
「それって、比嘉さんがお勤めをされている宿に泊れってことですか?」
柿崎さん流の悪ノリだったのかもしれない。
もちろん、俺には泊まれという意図はなかった。
ライトを点け、ギアを入れた。
「うん。泊まってってよ」
相手が柿崎さんだ。この悪ノリは悪ノリで返す。 |
|
| タイトル |
10-8.打ち明け話 |
今日の気分 | 続きます |
|
|
「あんなにお世話になっていながら、比嘉さんがいらっしゃらないところで話を進めるのは気が引けたのですが、実は私、生越課長に体質異常のことを打ち明けてしまいました」
転職よりもこの告白のほうが驚きは大きかった。
「当然ですけど、私のことだけです。比嘉さんのは話していません」
「それはまあ。で?」
「課長はびっくりされたようでした。けど、ああいうかたですので、あんまりわかっていらっしゃらないのかもしれません。口外せずに穏便に対応すると約束してくださいました」
そのくだりは想像に難くない。
「柿崎さんの決心が固そうだったから、じゃないですか?」
「私もそう思います。あっさりしたものでした。松見さんもいますから、現場に混乱はないはずです」
言われてみればその通りだった。
柿崎さんはもっと前から会社を辞めようとしていて、そこに代替要員として松見さんが派遣されてきたのだった。
「転職先は?」
「知り合いの会社です。事業が軌道に乗ってきたから、よかったらどう? って」
「そうなんだ」
俺がどれだけ柿崎さん残留に心血を注いでも、横からおいしい話が飛び込んできたら柿崎さんはそっちに行ってしまう。
うすうす勘付いていたけれど、当人から言われると凹んだ。じゃあなにができるのかと考えたところで、今の俺は沖縄だ。遠方にいる人間に説得力はなく、強く引きとめて柿崎さんの顔をまた曇らせるくらいが関の山なのだった。
「そうなんだ」
と、俺はなすすべなくもう一度言った。
「事務所の留守番のような仕事で、人の目も気にしなくていいから、というのが一番の転職理由です。その人、いえ、その人達は、私の体質のことも知っていて、だったらおいでって言ってくれているんです」
そこまで望まれていくというのなら、引きさがるよりほかはなかった。
「俺が『柿崎さん行かないで〜』って泣いてすがっても、だめなんですね」
絶妙のタイミングで店のおばさんがお冷やを注ぎたしにきて、離れていった。柿崎さんは決まりの悪そうな顔をしている。
客のいないテーブルを拭いたり、紙ナプキンを補充したり、ずいぶんかいがいしく働くおばさんだと思っていたが、そうではないのかもしれない。 |
|
| タイトル |
10-7.うちなーぐち |
今日の気分 | 続きます |
|
|
「いえ、観光ではないので」
うちなーぐち(沖縄方言のことだ)に俺が勘で答えると、おばさんは俺と柿崎さんをかわるがわる見やって、
「じゃあお仕事? ごくろうさまねえ」
と頭を軽く下げて、店の奥へ消えた。
話せるのなら最初から標準語でお願いしたい。
「しゃべりたかったのかしら。悪いことしちゃった」
「そうでもないだろう。ああいう人なんだよ」
「お知り合い?」
「じゃないけど。なんとなくわかるんだよ。ここみたいな、東京じゃないところにしばらくいると、慮る尺度が変わる」
ジュースを飲んだ。味がはっきりしていて甘い香りがした。
柿崎さんも一口飲んだ。濃くておいしいと言った。うん、と俺が頷いたら、なぜか柿崎さんは緩んでいた口元を引き締めた。
退職の話をしにきたのだった。
気づいていないふりをして、俺は勝手に話しはじめた。
「俺はずっと東京だったんですよね。生まれも育ちも。他の土地でどうこうしようなんて、考えたこともなかった。ここに来て、土地のものを食べて、土地の人とも観光の人とも話して、海の風や日に当たって。やりたいことや特別な目的があるわけでもないのにこういう場所に来るのは逃げなんじゃないかと、東京を発つ直前まで考えていたけど、来てみたらそうじゃなかった。理屈じゃないんだ。うまく呼吸ができている気がする。そういうのが妙に恥ずかしいけれどなんだか楽しいんだ。女の姿で到着して、今はこの通り男に戻っているという、例のアレは相変わらずなんですけどね」
じっと、柿崎さんは俺を見ていた。
俺だって柿崎さんを見つめ返していた。柿崎さん、髪がのびたなあと思った。
「それはさておき、柿崎さんの話です。会社を辞めるっていうのは、劇団に集中したいからですか」
「転職することに決めたんです」
柿崎さんから返ってきたのは意外な言葉だった。 |
|
| タイトル |
10-6.12月のマンゴージュース |
今日の気分 | 続きます |
|
|
「取りあえず乗って。どこか話のできるところへ行こう。このあとの予定は」
「特には。泊るところは決めてあります」
「そう。運転しながら話せたらいいんだけど、少し待ってくれる? 話したかったらそれでもいいよ」
頷く気配があった。無言のまま車を走らせる。
手ごろなカフェがあったので、そこにした。駐車場が空いていたのが決め手だった。店の入り口でシーサーが二体鎮座している。
柿崎さんがもの珍しそうにしていたので、このあたりでは郵便ポストにさえもシーサーがあるのだと教えてあげた。
テーブル席は半分ほど埋まっていた。日の差し込まない窓際の席を選んで座る。店のおばさんがお冷を持って近づいてきて、メニューを置きながらマンゴージュースを薦めてくれた。じゃあそれを、と言うと、柿崎さんも同じものを頼んだ。
「元気だった?」
「ええ。比嘉さんもお元気そうで安心しました」
会わずにいたのは数日だった。最後に会ったとき、俺は女の姿だったから、こうして元の男の姿で顔を合わせるのは一週間ぶりくらいになる。いくら『形が違うだけで同じ人間』といっても、外見が女のときは男扱いしてもらえないのだから、会ったうちに数えたくないのが本当のところだ。
柿崎さんのバッグから見たことのあるストールがのぞいていた。確か、色は秋冬のものだけれど生地が薄くて使える時期が短いと漏らしていた。ここは12月でもマンゴージュースでいいかと思えるくらいに暖かいので、あの東京の寒さが遠い嘘のように思えてしまうのだった。
「比嘉さんは前より健康的になられましたね」
「日中、外にいる時間が増えたから。屋外に出ているから焼けたんだろうね」
シャツの袖をまくってみる。色白で変わり映えはしていなかった。柿崎さんの視線からも俺と同じことを思っているのが伝わってきた。
「それに肉体労働をしているから筋肉もついたよ」
「そうですか」
「信じてないですね。なんなら見る?」
「遠慮しておきます。比べようにも前がどうだったかわかりませんもの」
おばさんがマンゴージュースを運んできた。
グラスを置きながら会話に割って入った。
「まーかいがー? 水族館?」 |
|
| タイトル |
10-5.偶然のいたずら |
今日の気分 | 終わります |
|
|
「ようこそ沖縄へ!」
ハイビスカスのイラストがかかれた看板をくぐったのは、同じ週の週末だった。那覇空港のロビーをぬけても、比嘉さんが綺麗だといっていた空を見ても、自分がどうしてこの地に立っているのかよくわからない。チケットを手配したのも、飛行機にのったのも自分なのに。
最近すっかり癖になった苦笑いをはりつけて、宿をとるためにとりあえずお店が多そうな国際通りまでタクシーで移動する。
いきなり「いま沖縄です」なんてメールをうったら、比嘉さんは驚くだろうか。…それとも、かえって迷惑かな。ふとメールの返事がこない、としょげていた松見さんの顔がうかんで、携帯から指先が離れた。
「迷惑だと思うなら、わざわざハガキなんてくれないはずだから大丈夫」
「休みが長引いて、その間トラブルのフォローができないから負い目を感じてハガキをくれただけかも」
自分を励ます言葉と、冷静すぎる言葉が交互に頭をまわる。
ぐちぐちと考えてはみたものの、結局携帯がポケットから出てくることはなかった。
ただしそれは「連絡をとるのをやめる」と決断したからではなくて。
…目の前に停車していた車に、彼がいたから。
何かを決めて、沖縄に来たわけではなかった。
転職の話ならメールで十分だし、それ以外の話は機会がなければ話さなくたっていいようなことばかりだ。
だから、「ありがとう」なんて御礼を言われては返事に困る。
車の窓越し、東京にいるときとは雰囲気が違う比嘉さんから視線を離さないまま、かばんを持っていた手に力をこめる。
「そういえば、ハガキ届いた?」
届いたからここにいるんですよ。
笑って返す代わりに、息を吸い込む。
「比嘉さん、私、会社を辞めます」
一息に言おうとした言葉は、不自然につまった。 |
|
| タイトル |
10-4.彼の居場所 |
今日の気分 | 続きます |
|
|
その日のうちに女に戻った私は、3日後に辞表を書いて、5日後に比嘉さんと会わないままそれを部長に提出した。
松見さんは最初こそ比嘉さんと私の同日休暇について、時に遠まわしに時に直接的に聞いてきたけれど、私の出勤後も比嘉さんの休暇が続いたことでやがておとなしくなった。
…というよりも日に日に落ち込んでいっている、という方が正確かもしれない。
「比嘉さん、どうされたんでしょうか」
ほとんど日課のように呟く松見さんに、私は肩をすくめる―実はこの反応も、ほとんど日課だ。
「松見さん、何か聞いてないの?」
「何も。メールうってみたんですけど、返事もなくて」
「そう。何か忙しいのかもね。体調崩したわけじゃないみたいだから、大丈夫だと思うけど」
比嘉さんからのハガキは辞表を出した日にポストに届いた。
沖縄・東京間の郵便事情は知らないけれど、ハガキに書かれた日付から3日以上たってるところを見ると、比嘉さんは休暇にはいってすぐにこれをくれたのだろう。
「空も海もきれいだ」なんて、松見さんがこれを見たらどんな反応をするかしら。
比嘉さんの言葉通り、綺麗な空と海の写真がついたハガキだった。
何度も読み返したけれど、彼がなんで沖縄にいるのかはよくわからない。比嘉、なんて苗字だから、もしかして故郷は沖縄なのかな。
ほんやりとそんなことを思い浮かべながらも、夜と朝とニュースのたびに沖縄の天気を確認した自分に気づいて、苦笑する。
比嘉さんに、話したいことは5日前からたくさんある。
そのうちのいくつかは、いまも話していいのかわからないことだ。
……受理された辞表に書いた退職日まで1ヶ月。比嘉さんはそれまでに帰ってくるんだろうか。 |
|
| タイトル |
10-3.ターニングポイント |
今日の気分 | 続きます |
|
|
翌日は、会社を休んだ。
欠勤の理由は比嘉さんとの約束をすっぽかして気まずかったからでも、松見さんとの対決がこたえたからでもない。
明け方、久しぶりに男になったからだ。
芝居が終わるまでもってくれたことを喜ぶべきか、何もこのタイミングでとため息をつくべきかわからなかったから、そのどちらもせずに部長と比嘉さんと逸美ちゃんに一括で欠席を伝えるメールを送った。
出勤時間を過ぎた頃、部長と逸美ちゃんからそれぞれ返信がきて、逸美ちゃんのメールには「今日は比嘉さんもお休みで、松見さんの機嫌が悪そうです」と追記がある。
…これってまた疑われるのかしら。昨日の今日でちょっと辛いな。苦笑いをしてみても、どうにかなるものでもない。
同じ日の夕方、三芳くんから電話があった。
近くの駅まで来ているから少し会えないか、と言う。
「男でいいならいく」と答えると、彼はちょっと笑った。
1時間後、最近駅前に出来たチェーンの飲み屋まで来た三芳くんは、席に座るなり社名の書かれた茶封筒を私の前に置いて、自分はさっさとメニューを開く。
「なーに?これ」
なんとなく礼儀な気がして尋ねると、「とりあえず中見てよ」と悪戯めいた笑みが返ってきた。
言われるままに茶封筒を開く。
中身は事業内容が書かれたA4のプリント数枚と、“急いで作ってきた風”の就業条件がかかれたB5のプリントが1枚。
一通り目を通すのに3分もかからなかったけれど、その間に三芳くんは通りがかった店員にビールとおつまみを数点注文した。
「なに?これ」
「うちの会社の案内」
「それは見たらなんとなくわかるんだけど、」
「葵さんさ、うちの会社においでよ」
「は?」 |
|
| タイトル |
10-2.デジャヴュ |
今日の気分 | 終わります |
|
|
国際通りまで、女の子の観光客を車で案内した。
二人は東京から来たのだという。
「お土産って、皆さんどんなものを買われているんですか」
俺だって幼いころに来たっきりの沖縄なのだけれど、こうして質問がくるところをみると、こんなに肌が生白くても、この地で買った服を身につけていれば、それなりに土地に馴染んでみえるらしい。
そう思ったのもつかの間、
「そんなこと聞かれても困るにきまってんじゃん。すみません、馴れ馴れしくって」
肌の色から察したのか、それとも俺の間を深読みしたのか、パーマヘアの女の子が申し訳なさそうに言った。
「えっと。皆さん結構バラエティ豊かに買われているようです。食べ物が多いかな」
「そうなんですか」
女の子の話題はコロコロ変わった。沖縄の話だけではなく、東京の話もしていた。脈絡がなかった。彼女たちにとっての沖縄は東京での生活の延長にあって、まるで新しい店に入るときのような素直な喜びだけがあるのだった。
買い物に時間を割きたいというので、頃合いをみて連絡をもらうことにした。
それまでの間、この界隈を見てまわろうか、それともやることもないから宿まで戻ろうかと考え、なんとなく視線を感じて窓の外に目をやった。
さっきのパーマの子が引き返してきたのかと思った。けれどもそうではなかった。
車の横に、真昼の幽霊みたいに柿崎さんが突っ立っていた。
当然俺は混乱したが、きっと俺以上に柿崎さんのほうが混乱していたと思う。
「びっくりしました」
窓を開けて俺が白状すると、柿崎さんのこわばっていた顔がようやくゆるんだ。
「私もです」
「自分で飛行機に乗っておきながら、驚いているの?」
「比嘉さんが車の免許を持っているとは思いませんでしたから」
「免許くらいありますよ。沖縄限定免許じゃないですよ」
「あの、今のは冗談なんですが、通じませんでした?」
もちろん通じていた。いるはずのない人がここにいる。そんなのは不意打ちだった。調子が狂う。
もしも車のエンジンがかかっていなくて、シートベルトも締めていなかったなら、俺はすばやく席を降りて、柿崎さんのことを抱きしめただろう。
それができなかったから、代わりに言葉にした。
「来てくれて、ありがとう」
「私は、ただ……」
「ありがとう」 |
|
| タイトル |
10-1.沖縄の日々 |
今日の気分 | 続きます |
|
|
柿崎さんと見事にすれ違った翌朝、俺は会社に欠勤の連絡を入れ、那覇行きの航空券を買った。
チケットの性別が男性表記になっていたので、先日から変化の解けない女性の身体に男装を施し、飛行機に乗り込む。
なんの問題もなかった。誰にもなんにも言われずに目的地に着いた。早くも柿崎さんに話したいことができてしまった。
堪え性のないことだと思う。
沖縄について早々、土産物屋で絵葉書を買い、眺めのいい場所へ移動した。空も海もきれいです、などと書き、何回も読み返して、柿崎さん宛てに送った。
それから三日になるが、返事はまだない。メールも来ていない。
本州と沖縄の郵便事情をネットで調べたい衝動に駆られながら、俺は東京から遠く離れたこの南の島で、これまでとはまったく違った生活を送っていた。
起床したらまずは玄関を掃き、打ち水をする。必要と言われたときに、ちょっとそこまで車を出す。それがここでの日課だった。あとは自由。
もともと宿泊客として沖縄の親戚の家を訪ねたのに、相手はそう受け取ってくれなかった。
親戚は民宿を営んでいた。ガイドブックに載ったり載らなかったりする小規模の宿で、従業員が減っても補充せず、気ままにやってきたらしい。だから、部屋は余っていても、ネットからの急な宿泊予約に対応できていなかった。俺が来るまでは。
「俊之くんがいてくれて助かるわあ。インターネットも直してもらったし」
俺が直したのはインターネットじゃなくて、ホームページのリンク切れだったが、まあよかった。
仕事の成果を面と向かって褒めてもらうのなんて、いつ以来だろう。モチベーションも上がる。
大浴場という札の下がっているそれほどでもない広さの風呂場掃除を、頼まれてもいないのに引きうけてしまった。 |
|
| タイトル |
9-23.飲み込んだ本音 |
今日の気分 | 終わります |
|
|
――私、は。
私は、松見さんが羨ましいよ。
普通の女の子として、何の引け目もなく比嘉さんにぶつかっていけるあなたが。
「何ですか?」
松見さんに先を促されて我に返る。
そんなこと言えるわけない。苦笑して目を伏せた私に、松見さんが「柿崎さん?」と心配そうな声をだした。
「ごめん、なんでもないの。ただ、私と比嘉さんは松見さんが思ってるような関係じゃないし、私の立場はあなたが思ってるほど良いモノじゃないってこと」
「……そうでしょうか。柿崎さんは気づいてないだけじゃないですか?」
変にしゅんとした調子で松見さんが言うので、私は今夜初めて彼女に向かって笑う。
「松見さんだって、結構いいポジションじゃない。私、代わりたいわ」
本音だったけれど、たぶん彼女には伝わらないだろう。
体質変化のことを松見さんに打ち明けるわけにはいかない。私の抱えているトラブルを話すことは、比嘉さんのトラブルを話すことに繋がってしまう可能性があるから。
「えー…じゃあ代わってくださいよ」
「どうやったら代われるか、松見さんが考えてくれたらね」
難しい顔の彼女を見ながら、残り少なくなったカフェオレを飲み干したところで、店内のBGMが変わった。いまさら蛍の光なんてずいぶん古風なチョイスだけど、これを聞くと帰ろうという気になるから不思議だ。
布巾を持った店員がこちらを伺うようにして近づいてきた。
「そろそろ行きましょうか。終電なくなっても困るし」
「そうですね」
素直に立ち上がった松見さんと店を出て、駅前で別れる。
「また明日」と先ほどまでの睨み合いなんて忘れてしまったような笑みと共に手を振り、遠ざかる松見さんからは、やっぱり甘いベリーの香りがして。…女として勝ち目ないよなあ、なんて自嘲的なことを考えながら彼女に背を向けた。
次の列車を知らせる電光表示の横の時計は、既に23時をまわっている。かばんの奥にしまったままだった携帯を取り出して比嘉さんに電話をかけてみたけれど、圏外だというアナウンスが流れただけだった。
さすがにもういない、か。念のために、比嘉さんから指定されたファミレスもまわってみたけれど、彼の姿は見当たらない。
行けなくてごめんなさい、と事情は伝えずに謝罪だけをメールで送って携帯を閉じた。
零れ落ちる今日数度目のため息は、心地良いとはいえない疲労感を伴って、やけに重かった。 |
|
|