比嘉 俊之柿崎 葵

晴れのち彼、くもりときどき彼女

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交換日記 nikkijam

2008/08/29(金) 柿崎 葵
タイトル 6-8.予想可能なトラブル 今日の気分終わります


視線をあげる。
眼鏡の上の歪んだ眉を見て、ほっとする。

「ああ、良かった。比嘉さんでした」
「柿崎、さん…?」
「いやだ、疑問系にしないでください。柿崎ですよ。葵のほうですけ…あれ?どうしたんですか?なんだか、顔がちょっと赤いみたい」

安堵というのは人の口を軽くする、…のだと思う。
一気にまくしたてたら比嘉さんは困ったように目を逸らし、一度だけ瞬きをしてから「戻ったんですね」とひとりごとみたいに呟いた。

「ええ、戻っちゃったんです。だから比嘉さん以外の人が入ってきたらどうしよう、ってドキドキでした。慌てて外にでそうになったんですけど、ここから出て誰かに会うのも危ないなぁ、と思いまして。ああ、ほんと、比嘉さんでよかったです」

さらに一息でしゃべった私に対して、比嘉さんは「ああ」と相槌なのかどうかわからない返事をしてきた。
いつもに比べて反応が鈍い。

「比嘉さん?」
「はい?」
「どうかされましたか?戻ってきてから様子がおかしいですね。何かあったんですか?そういえば、松見さんは――」

問いかけを遮ったのは、控えめにならされたノック音だった。

交わった視線に同じ緊張が走った。
それでもさっと私から目をそらした比嘉さんは閉じたばかりの扉からすばやく外に出て行く。
がちゃんと先ほどと同じ音をたてて扉が閉まった。

ややあって、くぐもった話し声が聞こえてきた。
声の雰囲気といい、話し方といい、相手は松見さんで間違いないらしい。
ただふたりがどんなやりとりをしているのかまでは聞き取れない。
扉に近づけば聞こえるだろうけど、盗み聞きの趣味はないし、何より万一松見さんが中に入ってきたときに言い訳のしようがなくなる。

今のうちになんとか男に戻る方法はないだろうか。
こんなにくるくると性別が入れかわってしまうんじゃ、さすがに不便だ。どちらの性別でも構わないから、せめて比嘉さんくらい長続きすればいいんだけど。
考えてみても、男になる方法なんて思い浮かばない。
そもそも自分の意志で切り替えられるんだったら、この体質異常は面白いだけだ。
…そうじゃないから、困ってるわけで。

部屋の外の押し問答は続いてるらしい。
ただ待つだけの時間は、長い。



2008/08/29(金) 柿崎 葵
タイトル 6-7.待ち時間の間に 今日の気分続きます


狭い会議室で頬杖をついて待っていた。
息を殺して、ぴったり閉じている扉をじっと睨みつけながら。

買ったばかりのジャケットは、ぐちゃぐちゃに丸めてカバンの中に入ってる。…正確にはジャケットだけじゃない。シャツも、ズボンも、靴も。全部無理やりカバンにつっこんである。
無様に膨らんだカバンは、バランスを失って壁にやっと寄りかかってる状態だ。

ため息を飲み込んだのは3回目。
……また、女に戻った。

変化がおきたのは比嘉さんが出て行ってすぐで、比嘉さんが戻ってきたときにかける言葉を必死に探していたせいか眩暈に気づくのが一瞬遅れた。

あっという間に女になったのはいいけれど、職場のいつ誰が入ってくるかわからない会議室で着替えをするのはスリリングを通り越して吐き気がする緊張感があった。…できればそんなこと一生知りたくなかったと切実に思う。

机の上に比嘉さんがおきっぱなしにしていたモバイルPCは自動的にスリープモードに入ったらしい。
さっき暗い画面で自分の顔を確かめようとしたけど、さすがに上手く映らなかった。

4回目。
ため息を飲み込んで、背筋を伸ばす。
こんこん、と2度。扉をたたく音がした。

比嘉さんかどうかは、賭けだ。
目の前に開いておいた手帳に視線を落とす。
薄く空いた扉に身体を滑り込ませてきたその人は、一瞬の間もおかずにガチャンと音をたてて扉を閉じた。


2008/08/21(木) 比嘉 俊之
タイトル 6-6.会いたいから 今日の気分終わります(修正済!)


サーバーにはまだ二杯分のコーヒーが残っていた。新しいカップにコーヒーを注ぎ、持っていこうとしたらなぜか止められた。お茶なんか男も女も関係なく淹れてだすだろうと言うと、なに言っているんですかと松見さんは憤慨した。
「お客さんがいるときは別でしょう」
「お客っていうか、柿ざ」
「お友達だってお客様です」
俺は口を閉ざした。
相手が柿崎さんだから別にいいと思った。などと本当のことは言えないし、機転も回らなかった。
至近距離で松見さんはにっこり微笑む。
「いいですから、私にさせてください。心許ないかもしれませんけど、大事なお客様がお待ちだってことくらいはこれでもわかっています」

生越課長が煙草を吸いにきたので、手狭になるからと、入れ違いでふたりとも廊下に出た。向かいは窓になっている。隣のビルで社員が腕を回していた。その横をひっつめ髪の女性が慌ただしく通った。
「いらっしゃっている柿崎さんのことなんですけど」
と、考える様子をみせてから松見さんは俺を見あげた。コーヒーの表面が静かに揺れている。小会議室のドアは開けてあげたほうがいい。
なに、と促したら、はにかんだ顔になった。
「休み明けで比嘉さんも仕事が溜まっていて忙しいのに、それでも来客としてお迎えするんですね。昨日お会いしていたのに」
「ええもう、こっちの都合はお構いなしですよ、あの人。なにしに来たんだか」
仕事とはいえ、と俺は取ってつけたように言う。
松見さんがつぶやいた。
「会いたかったからじゃないですか」
軽く目を伏せ、頬を染めている。

素直に言われ、俺は言葉に詰まった。会いたい、なんて自分とは縁のないところで行き交う感情だった。松見さんの発言はからかいのような混ざりものがなく純粋で、だからこそ言いようのない気持ちの高ぶりを抑えるのが苦しい。
廊下を歩いているだけなのに心臓の鼓動が激しい。ちょうど初夏の検診で生活習慣病を指摘された先輩が目に入ったけれど、自分はそういうのではない。誰も笑わない中途半端なジョークだ、あほらしい。ここは会社で今仕事中なんだぞと念じている自分を意識する。

柿崎さんが俺に会いたいと思ったとして、それで俺はなにをやっているんだろう。
抑えきれないかもしれない、と唐突によぎった。観念したみたいだった。


2008/08/21(木) 比嘉 俊之
タイトル 6-5.青天の霹靂 今日の気分続きます


言おうか言うまいか迷ったけれど、結局話した。いずれはわかることだった。
「コレクション出品用の選考を午前中にやったんだ」
「代々木のあれですね。そろそろ選ぶ時期ですものね」
人気モデルの登場するファッションショーは全国各地で行われ、新聞でも話題になっている。今回の代々木体育館でのイベントは携帯サイトと連携していることもあって、即売の効果が期待されていた。
「うん。で、俺のが選考の最後の最後で外されて、代わりに別のが選ばれた」
「そうだったんですか」
柿崎さんまでしゅんとした。


話す内容だけ聞いているとやっぱりいつもの女性の柿崎さんなのだった。頭では理解していても、目は混乱するし、柿崎さん本人も人格まで取り替えてますますややこしくするしで、困惑は尽きない。けれども配慮して言葉少なになるところは、普段の柿崎さんその人のままだった。
俺は安堵の息をついた。
言い訳はしない。これだけ欠勤が多ければ、どこかにしわ寄せがくる。たとえ男でいる間にどれだけ仕事や知識吸収に励んだとしても、だ。

「それで別のというのは、誰のものが選ばれたんですか」
選考対象は柿崎さんも目にしている。
俺はパソコンを閉じた。
「諸星だよ。あいつのが二点。俺はなしだ」
柿崎さんのこげ茶色の猫目が大きくなってこちらをとらえた。ばつが悪くなって、俺は視線を逸らした。

こんな人間でも会社でやっていけると豪語しておいてこのざまだ。言い訳をしないとなると、もう話す言葉はない。
「比嘉さん、あの」
「松見さん遅いな。忙しいのかもしれないから、お茶を淹れるのを手伝ってくる」


給湯室からハミングが聞こえた。止むのを待って声をかけたら、お盆ごと振り返った松見さんは豪快にコーヒーをぶちまけた。俺にはかからなかったが、ハミングの罪悪感からか、しつこいくらいに頭を下げた。
俺は濡れた雑巾で拭くのを手伝いながら、今のはなんの曲だっただろうかとぼんやり考えた。


2008/08/21(木) 比嘉 俊之
タイトル 6-4.今日の気分 今日の気分続きます


「僕は柿崎といいます。よろしくね、松見さん」
男版の柿崎さんがいったいなにをよろしくするというのだ、と言いたいのをこらえ、俺は柿崎さんと松見さんのやりとりを見守る。

いや、ある意味、すでによろしくしているといえなくもない。松見さんは柿崎さんに一宿一飯の恩義があるし、それから忘れがちだけれど松見さんは柿崎さんの後継者として会社と契約をしたのだった。
課のマスコット的存在を目指しているようで、まだまだマスコットにはほど遠い松見さんだ。もう少し落ち着きがあれば相応に評価されるのに、やることが過剰で貧乏くじをごっそり引いている。
悪い子じゃないだけに、どうにか矯正したくなる。俺だけではない。きっと生越課長や諸星もそのクチだろう。

「はい。こちらこそ、よろしくお願いしますね」
当然だが、松見さんは柿崎を自称する目の前の人物が誰なのか全く知らない。その彼女が笑顔で名刺を差し出すと、柿崎さんのほうが困惑した様子で名刺を切らしていると言って返した。
こういうとき、松見さんは意に介しない。それではのちほどお茶をお持ちしますねなどと如才なく応じた。そこでようやく俺と柿崎さんは彼女から解放された。


小会議室に柿崎さんを待たせて職場にモバイルパソコンを取りにいった。やりかけの仕事を机に広げたままだが、進み具合がはかばかしくなかったからちょうどいい。
定例ミーティングに出られないと生越課長に断わりを入れて下の階に戻ると、柿崎さんはくるりと一回転して、どうですかと聞いてきた。ずいぶん浮かれている。俺は反対に、平静を取り戻そうと努めた。
「このジャケット、来る途中で買ったんだ。僕は似合うと思ったんだけど、どうかな。比嘉さんはどう思います?」
「タグがついてるよ」
「え。嘘。そんなはずは」
「嘘だよ。ついてない。よく似合っている」
憮然とする柿崎さんにパイプ椅子をすすめ、正視しなくて済む位置に自分も座る。モバイルパソコンを立ち上げたが、充電が残り半分を切っていた。ついていないときほど、つまらないことが続く。

柿崎さんはジャケットを椅子の背に掛けた。
「なんか今日の比嘉さん、感じ悪くないですか?」
「機嫌が悪いんだよ」
俺は即答した。


2008/08/05(火) 柿崎 葵
タイトル 6-3.嘘は最小限で 今日の気分終わります


「うわっ、…かき、」
比嘉さんは私を見るや「嫌な予感が的中した」とでも言いたげな表情をあからさまに浮かべる。
名前の後半を飲み込んだのは、たぶん後ろから松見さんがついてきたからだ。

「やあ、ごめん。ちょっと早く着きすぎちゃったかな?」
「はやくって…」
眉を寄せた比嘉さんがため息をひとつついた。

数秒の沈黙。
沈黙の理由は追いついてきた松見さんがなぜか私と比嘉さんの間に立っているからで、私はワンテンポ遅れて「ありがとう」と彼女に向かって間の抜けた御礼を口にする。

「いいえ」と、笑顔たっぷりに松見さんが首を振った。
それでも彼女は立ち去らない。まさか今の私が仕事に戻れというのも変だから、とりあえず松見さんのことは忘れて比嘉さんに顔を向ける。

「俊之?早すぎたなら出直そうか?」
変な呼び方をしたせいか、比嘉さんの返事が遅れた。

「は?…ああ、いや。大丈夫。松見さん、午後は小会議室はあいてましたっけ?」
「小会議室?応接室とか普通の会議室じゃないんですか?」
「…ホワイトボードを使いたいし、人数も少ないからできれば小会議室がいいんだ」
「わかりました、見てきますね」

小会議室はひとつ下のフロアにある。
倉庫にしている部屋に近いのもあって、お客さんを通すことはほとんどないんだけど、松見さんは疑わなかったみたいだ。

…と、思っていたら彼女は「あ」と入口の手前で立ち止まり、小走りにこちらに戻ってきた。

「どうかしましたか」
比嘉さんの問いかけに、彼女は「あの」と少し躊躇う様子をみせて。それから私の方にくるりと向き直った。

「あの、まだお名前をうかがってなかったなって」
ずっこけそうになったのは不可抗力だと思う。
でもまさかコントのように床に転がるわけにもいかないので、代わりに唇を笑ませる。…ちょっとくらいはひきつっていたかもしれない。

「僕は柿崎といいます。よろしくね、松見さん」
比嘉さんがとがめるような視線を一瞬、こちらに投げた。


2008/08/05(火) 柿崎 葵
タイトル 6-2.彼女と再会 今日の気分続きます


13時30分。
エレベーターは軽い振動と共に止まり、扉がひらく。
EVホールから続く廊下に人影はない。少し先の入口からは電話の音や小さなざわめきが聞こえてくる。

腕時計を見ようとして、何もつけていないのを思い出した。
普段使っている時計がいかにも女性用のチェーンっぽいものだったから、男に変わってるときはしていないんだっけ。
今までは男になると家にひきこもってたから不便は感じなかったんだけど。
これも、近いうちに買ったほうがいいかもしれないな。
携帯で時間は確認できても、腕時計をみる癖がでたときに格好悪い。
そんなことを考えていたら、後ろから「あれぇ?」という最近すっかり聞きなれた声が聞こえた。

「こんにちは」
松見さんだった。
片手にポーチを持っているところをみると、メイク直しでもしてきたのだろう。

「昨日、比嘉さんと一緒にいた方ですよね。えっと、私、カフェの前で会った…」
「ああ、覚えてるよ。昨日はどうも」

口端をあげてみせたら、松見さんも少し笑った。
可愛い子だと思う。さらさらの髪も、ピンク色の頬も。

「今日はどうされたんですか?」
「うん、ちょっと…としゆ……いや、比嘉さんと打合せの約束を」

比嘉さんの名前を言い直したのは、わざとだ。
昨日はいかにも普通の友達っぽい紹介をされていたから、今日松見さんに会ったら“プライベートの友達がビジネスの用件でたずねてきた風”というまどろっこしい小芝居をしようと決めてた。
役割さえ決まっていればあとは簡単なもので、松見さんは疑う様子もなくにっこりと微笑むと「それじゃあ、呼んできますね」と中に入っていった。…私を置いてけぼりで。

……別にいいんだけど、ね。実際のところ私は比嘉さんにとって招かれざる客なわけだし。
とはいえ、諸星くんがいつもため息をついてる理由もわかる気がする。
エレベーターと向かいあうように壁にもたれかかって苦笑い。
しばらくすると慌しい足音と共に比嘉さんが飛び出してきた。


2008/08/05(火) 柿崎 葵
タイトル 6-1.変化を楽しもう作戦・第一弾 今日の気分続きます


翌日になっても、身体は男のままだった。
鏡の前に立って腕組みをする。気障っぽく髪をかきあげる。ゆっくりターンをしてみる。笑ってみる。睨んでみる。…なんとなくお風呂上りに鏡に向かってポーズをとってる男の人を思い出して、ため息をついた。

要するに暇なのがいけないのだ。
時計は未だ午前中の時間を示していて、猫足テーブルの上にはデパートの大きな紙袋がそのままになっている。男物と女物の服に靴、それに男性用ブランドの大きなカバン。
男物の服をしまう場所を作ってから片付けようと思ってたんだっけ。
仕方なく中身を出して、せっかくだからと買ったばかりの服に袖を通して――良いことを思いついた。


緩む頬をおさえながら、急いで出かける準備をする。
本当はスーツがあればよかったんだけど…ううん、そんなのは買えばいい。幸い目的地はショッピングにうってつけの駅にある。

着替えを買ったばかりのかばんにつっこんで、髪をワックスで後ろに流して、それだけで準備OKだ。化粧の手間がない分、あっという間。
…日焼け止め、ぬらないとしみになるかしら。
玄関を出た直後にそんなことを思いついたけど、気にせずに鍵を閉めた。

向かう先はもちろん“柿崎葵が欠勤中の職場”だ。


駅ビルの適当な店でジャケットを買って、値札をはずしてもらう。
本当はスーツが良かったんだけど、裾あげに時間がかかるらしくてあきらめた。
まあ、あんまりうるさい会社でもないし。スーツを着てないお客さんもよく来てるから、目立ったりはしないだろう。

職場の入ってるるビルについたのは、まだお昼休みにかかる時間だった。
下手にカフェに入ったりすると食事に出てる社員に鉢合わせそうよね、と来た道を戻ってたばこと塩の博物館に入った後、別に鉢合わせても問題なかったことに気づく。
…意識しすぎは悪い癖。とはいえ100円の入場料は支払い済みだし、空調の効いた静かな場所をわざわざ手放すのも惜しい。

案内図によると2階と3階が常設展示、最上階が特別展になってるらしい。
エレベーターは使わずに目に付いた階段を上に上る。
中二階にも展示があって、たばこの歴史に関するものみたい。
ほとんど立ち止まらずにゆっくり歩いて、ロビー横のミュージアムショップに戻ってきたときには昼休みはとうに終わってた。


2008/07/28(月) 比嘉 俊之
タイトル 5-18.夜の嘲笑 今日の気分終わります(ちょっと修正


結局その日は、俺も柿崎さんも男同士のままだった。それきり性別変化は起こらなかった。
買い込んだものと柿崎さんを柿崎さんのマンションに送り届けて帰宅すると、スミちゃんが上目づかいで寄ってきた。うっかりしていた。散歩。今日はもうそんな気分になれなかった。

ものの五分でご近所を一周し、水を飲ませていると、
「やめたの?」
と、母が二階の窓から声をかけてきた。なにを聞かれたのかわからなかったので黙っていた。母は笑いを含んだ声で、なおも言った。
「やめたの? あんたいつもやってたじゃない。スミちゃんに悩み相談。結構面白かったのに」
しゃがんだ体勢でめまいがした。いつもとはいつからなのか。聞きたかったが、この流れで母と目を合わせることなどできなかった。暗がりであっても、表情が読み取れないほど距離が離れていても、だ。顔も耳も熱くなっている。母のいやらしい笑い声がする。

俺はうつむいたまま、立った。動悸は激しいし、耳がぼうっとしていた。それでも母の嘲笑は、夜の空気を震わせる聞き苦しいものだった。
たまらず、俺は言った。違う話だ。
「あのさ」
「なあに」
「俺、言ったっけ。自分の例の体質のことを、他の人に話したって」
「あらあら、そうなの」
そうなんだ、と俺も返した。スミちゃんの頭をなでた。背中もなでた。

「梨、食べる?」
母が聞いてきた。もう笑ってはいなかった。
食べる、と答えて、俺は家に入った。


2008/07/28(月) 比嘉 俊之
タイトル 5-17.アイスコーヒーのストロー 今日の気分続きます


昨今の風俗事情には疎いが、歌舞伎町のネオンの見える通りは避けて帰ったほうがよさそうだった。試しだから、興味本位だからと、夜の商売の面接を受けてみると言い出しかねないし、柿崎青年のこのノリでは即採用され即戦力になりそうだった。
取り越し苦労でもかまわない。俺としては、可能性の芽さえ摘んでおきたかった。

「まったく、柿崎さんの実の保護者だってここまでは心配しないだろうという勢いで、俺は心底柿崎さんの行く末を案じているんですから。少しは汲み取っていただきたいですよ」

柿崎さんが女性に戻るまで、欠勤をうまく処理するという約束をした。
すると柿崎さんは、さすがに悪ふざけをやめた。よろしくお願いします、と額がアイスコーヒーのストローにくっつくくらい、頭を下げた。そこになにが置いてあっても気にしないような、迷いのないやりかただった。

俺は昔の頑固おやじみたいに黙ってグラスの水を飲んだ。強く言いすぎたと後悔した。あれもだめ、これもだめと口うるさいばかりで、なにがやりたいのかが見えてこない。
その点、柿崎さんはもしものときの準備をして、行きたいところに行くのだから立派だった。まだこの体質になって二ケ月に満たないというのに、今日なんか途中で変化してしまってもけろっとしている。年齢は関係なく、そういうところはおおいに見習いたかった。

生来の気質もあるからいきなり行動に移すのは難儀だが、心掛けくらいならどうにかできるので、ちょっと頑張ってみた。
「ですが、ふたつめの人生という発想はすごいと思いました。俺はずっと半人前としか捉えられませんでしたから」
でしょう、と言い、柿崎さんは眼を細めた。
「僕の勝ちだね」

例の口調で言われても、悪い気はしなかった。
そうですね、と答えた。


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