春野Ca:P

Tick と Tack
Tackは不可逆変化に憧れる

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交換日記 nikkijam

2008/09/04(木) 春野
タイトル あああ



激しく落ち込んでる。
じわじわときた。やっぱりその瞬間って、衝撃は受けるんだけど、呆気にとられてるというか、「そっか」と思うだけで、時間を置いてからの方が、「うわー、うわー!!」となる。ことが、多い。


廉君が、保育園で、えっと、男の子に腹を殴られて。
原因は廉君にあるのだけど、先生から報告を受けた時に、先生の気まずそうな顔というか、濁しながら喋っている部分があって、それは遠回しに「廉君のイタズラは度が過ぎる」みたいなことを言われているようなもので、「いえ、それはごもっともなんですが、先生は両者をどうやって叱ったの?」みたいな疑問が、後から出てきた。

というのも、家に帰ってから廉君に確かめたところ、二人の男の子に殴られたと言うからだ。
廉君も謝っていないし、相手の子も謝っていないと言う。しかも二人かよ。凄くびっくりした。それ、じゃあ、解決してないじゃん。


保育園の男の子がトンボを捕まえていて、廉君がそれを逃がしてしまって殴られたのだそうだ。廉君は「自分もトンボに触りたかった」けれど、自分では捕まえることが出来なかった。じゃあ、触らせてと言えば良いよ、と言うと、「言ったけど触らせてくれなかった」ということ。だから廉君が、奪った形になったのだと思う。

親としての正直な感想は、「自業自得だけれど、やはり可哀想ではある」というもの。
盗ってはいけない(トンボの所有権なんて誰にもねえけどよ)
無理に奪うと、そういう結果になる、ということを学べたのは良いと思う。けれど、やはり、殴られるって、どういうことだろう。叩くとか、押すとかじゃなくて、4歳児が人を殴る。
自然なことなのかな。殴られて咽せる状態って、よくあるのかな。



廉君を囲んでいるのは、大体が大人だ。
唯一の子供の、姪と甥も小学校高学年に入る。だから基本的に、廉君は『譲られている』子だ。
廉君を通して、姪と甥は許容を覚える。年齢の高い者は、無条件にそれを望まれる。
じゃあ、廉君は誰に対して許容するのかということを、自身の経験で積み重ねていくしかない。
そうなんだけど、さ。
「男の子だしな」と、思わないでもないんだけどさ。


若者の血気盛んなノリが嫌だ。



2008/09/02(火) 春野
タイトル 否定ではなく、無視


数ロジックは一度始めると結構病み付きになる。なんていうんだっけ、さっきまで憶えてたのに。

こういう単純明快なルールのものがあって、難易度が上がるにつれて、「ああ、なるほど」と思える問題の出され方をする時、こちらの考えることなど全てお見通しなのネ。みたいな気分になって、悦。解いて行く最中に、自分が何に頼っているのか、癖が見えて面白い。
3×3ではなく、9×9として見えてくると楽しい。慣れると1から数えなくなるのは、数を図として捉えているのかな。

体調は悪いけど、眠ってはいけない時にやると、なんとなく一石二鳥気分。
偏頭痛はアタマを使うに限る気がする。




本を沢山読むと、頭痛が起きる傾向にある。
わたしの生活リズムの中で、一番意識の収束が激しい瞬間なのだと思う。
だから何度も休憩を挟んで読むようにしているのだけど、読んでいる瞬間は体中の血の巡りが悪くなっている気がする。キリの良いところで本を置いた時、大体足先が冷えている。

なんとなく。

人間の集中力には限界があると言う。というか、効率の良い集中力かな。
楽しいことをやっている時って、時間の経過が異常に速い。色んなことを我慢してでも熱中したい時がある。例え集中力が切れていようと、楽しい気持ちがプツリと切れることは(他者の介入さえなければ)滅多に無い。
失敗や挫折を味わった瞬間は、「もういい」と思う。けれど、それでもやり直してやるという意欲さえ湧いてくることがある。
奇跡的に飽きることなく、また脱力感に嘖まれたとして、やり直すだけの気力を持って夢中になってやっている瞬間は、活力で溢れている。
それと同時に、寿命を削っている気がしてならない。

まあ、嫌なことをだらだらとやらされている時の方が、ゆっくりと無意識に自殺しているようなものだと思うけれど。


というか、もう滅多にそんなことはやらないけれどね。後悔を誘いそうなことは出来る限りやめている(楽しいことも、楽しくないことも)あはは、経験則。


わたしは、よく姉に中断させられる。
その度に、「楽しいことが後にとっておけるんだから良いじゃん」と言われる。なんて我侭な奴だろうか。ただ、一理あるので特に不満はない。
本当に邪魔されたくない時は携帯の電源を切っておく。


2008/09/01(月) 春野
タイトル すんげくだらないこと



友人の言葉を借りて言うならば、「ぶるってる」。

恐怖とか驚きとか感動とか惨敗とか、なんかその辺りのものかき混ぜられて身動きとれないどころか体が勝手に震え出してそれを上から見ている自分が「ああ、なんとも哀れ」と思っているのに止められない、止まってくれない現象、っぽいもの。
だから多分、「参りました」ってこと。
で、ちょっと「畜生」みたいな。



最近のわたし、「子供の時みたいな」などということをよく書いているなと分かっているのだけど、
タイミング的におかしくないか? と思うくらい、素敵な作品の撹乱工作に遭っている。ある意味災難だ。何より幸せ。
疲れた体に鞭打って(ちなみにそんな趣味は無い)、目を見張っている。問題は時間だけだ、という感覚。時間に追われて焦るのではなく、時間が足りないと嘆くのではなく、他の物投げ打ってでも時間を消費することになんの躊躇いも感じない潔さ(or愚かさ)


色んなものの帳尻が合っているのかもしれないと思う。

例えば、体調。
例えば、仕事。
例えば、生活。


「嫌だな」と思った時に、それは大体訪れる。帳消しにされた、或いは取り戻した感覚に陥る。

はいはい、生かされてる生かされてる。
生きてるのはわたしだけどね。



最近読んだ別々の作品の中に、大体出て来る『女学生』に対する表記の殆どが『怪物』を示すものと類似している。
確かに自分が通った道であり、そうした生き物とも接していたし、何より自分がその中の一部であったことには違いないとしても、確かに女学生という存在の透明度は脅威で尊敬に値する。どんな人種であろうともね。

年をとったから、ということではない。年をとる前からそう思っていた。17という数字は確か10歳くらいの時から不吉だったし、物の見事に思い出に残る羽目になった。
ティーンじゃない。17が不吉なのだ。過ぎる前も過ぎてからも共通した認識だ。

20を過ぎた女の言い分は戯れ言であり負け惜しみにしかならないと、越える前も越えてからも思うようなそれと似ている。
実際の心情はまったくそれとは違うのだけど、その認識は理解できるよ、ということ。



最近は専ら子供と大人のあれこれを考えてアタマを爆発させる日々だ。年をとる度加速していく問題なので、そりゃ時が駆け抜けるのもなんだか速いよ。


2008/08/31(日) 春野
タイトル ただいま




祖母の家に行く度に、「あと2、3年は行きたくないぞ」と思う程の疲労感を得る。
子供の時はただ退屈だから行きたくなかったのだけれど、大人になった今では、大人達の会話に混ざらなければいけないことが苦痛なのである。

わたしが酒を飲んでいると知った時、
わたしが煙草を吸っていると知った時、
母はなんとなく複雑そうにしていた。
兄弟の上二人がそうであるにも関わらず、わたしだけは母の中でずっと子供のイメージだった。

わたしの知り合いの大人達の中で、対応の変化が一番遅れたのは母だった。
そういうものなのかと思う。
それでいい、とわたしは思う。
わたしはいつまでの母の子供である。
三人の内で一番我侭で感情的で素直な子供である。

祖母の家に行った時、わたしはそれなりに子供になれるのだ。
それは中々幸福なことであると感じる。
母にとっても、金銭的負担のかからない子供の面倒は平気そうだ。もう、我侭を言って困らせるわけではないし、他者に失礼な態度をとらないし、言えば動くのだから、それは、そうだろう。

一度母親になった女は、「ただの女になりたくなる」事はあっても、『母親』としての責務が身に染み付いて、子育てが終わった後も、母親であることを望むのだろうか。


祖母の家の、二階の部屋の大きな窓からは、庭が見えた。
花が咲いて、トマトやきゅうりが実っている。
わたしが子供の頃には立ち入りを許されていなかった部屋だから、こんな景色が見えることを去年までは知り得なかった。

庭では廉君が、田舎の子供の典型的な風貌で土を掘っていた。物凄く汚くて、物凄く健康そうだ。
干してある布団に腕を乗せて下を見ていると、廉君が気付いて

「ママ! とんぼに蜘蛛の巣がついてる!」

と言っていたけれど、恐らく蜘蛛の巣にとんぼがついていたのだと思う。
もしかしたら本当に、とんぼに蜘蛛の巣がついていたのかもしれないけれど。


帰りの電車で、若い男女が喋っていた。男の声はわたしには聞こえてこないくらいのひそひそとしたものだったけれど、女の声は全て聞き取れる程の大きな声だった。
ぼうっとしているだけで耳に入って来る女の話は、物凄くくだらなくて驚いた。
面白いと思っているのか、何かが有益なのか、それともくだらないと自覚した上での内容なのか、分からない。

本を読み始めたら、その声も特に気にならなくなった。


2008/08/30(土) 春野
タイトル せれくと




赤ずきんちゃちゃは今読み返しても面白いと思う。




姉がインターネットを開通させたので、昨日は初期設定をやりに行って午後が潰れた。
相変わらずMac10.5が付属のディスクじゃネットに繋ぐ設定をしてくれなくて、手動で繋いだわけだけども。わたしが購入してから4ヶ月が経とうとしているのに、まだ対応してくれないのかNTT。

わたしなどよりも、姉はパソコンの内部についての知識が無い。
殆どネットサーフィン(検索)しかしない人である。
わたしが代わりにやるよ、と言うと、「やり方を教えてくれ」と言う。自分でやって、覚えたいようだった。

けれどわたしは他人に説明できるほど、知的な人ではない。なんとなくこうかな、と思ってやったら出来た、という曖昧で適当な人物だ。基礎的な知識が無いので理屈を理解できなくて、ヴァージョンアップされる度に覚え直し、という感覚でやっている。

その曖昧模糊とした知識でもいいから説明してくれ、と言われたので、パソコンを触っていれば当たり前に出て来る単語を使って喋ると、理解してくれない。
OSとか、プロバイダとか、HDとか、アプリケーションとか、基礎以下のことも分からないので、色んなものに例えて、とにかく関係性とか重要度だけを説明した。

まあ、「立ち上げる」とか「閉じる」とか、そういう言葉の意味を知っているだけ、とても楽なんだけど。これを母親に説明するとなると、ディスプレイを持ち上げたりし出すと思うので、言う気になれない。



わたしは学生の頃から、他人に勉強を教えることが出来なかった。「人に教えることができて初めて、理解しているということになる」ということがよくわかる。わたしは物事をしっかりと理解できていない。
だから点数がとれた時はいつも不安だった。
わたしはきちんと理解していないのに、なんとなく出来る状態がとても危険だと感じていた。
深みにハマることが苦手だったのだ。「分からない」ことは数限りなくある。分かったつもりになっても、また分からないことが出て来る。永遠の連続性ほど怖いものは無いと思った。


2008/08/27(水) 春野
タイトル よく



大変だ。なんてネグレクト!

夕方頃突然眠たくなって、気がついたら20時くらいだった。
途中で廉君が「お腹すいた」と話しかけてきて、それに適当に返事をしていた記憶がある。
起きてみたらパウンドケーキのカスとバナナの皮とゼリーの器。

あ、あ、あ。

申し訳なさのあまり、明日は何が食べたいかを尋ねると、「お茶漬け」と言われた。
あれね、手作りじゃなくて、市販のやつね。
その後で、「やっぱり野菜が食べたい」と仰った。
ので、多分焼き肉の肉が無いものを食べると思う。
廉君は肉が好きじゃないけれど、焼き肉のタレは大好物だ。
肉はウインナーしか食べないのですが、多分ウインナーを肉と思っていないのだと。まさか腸詰めだと知っているわけではないだろうな。



無意識に、子供の好き嫌いを自分の過去と比べる節がある。
わたしは子供の頃、肉と魚とチョコレートと生クリームが好きじゃなかった。玉子の黄味とか大根とかも苦手だったので、おでんの日はなんとなく憂鬱だったりした。
けれどわたしは好き嫌いのない子供だったので、とりあえず何でも食べていた。不思議なことなんだけど、豆腐やきのこ類もまったく好きじゃないのに、残すことなく食べた。
きっとどこか鈍感だったのだろうと思う。

美味しいものは美味しいと理解できたけれど、ご飯を美味しいと思って食べることは少なかった。
だから例え廉君がわたしの作ったものに無反応でも、気にならない。
喜んで食べてくれるのがベストだけれど、成長のことを考えると、まあ三食は食べてほしいなと思う程度。大人は二食でも一食でも構わないけれど、子供は日頃のエネルギー+成長に使われるものが余計に必要なので、やっぱりわたしと同じ食生活ではいけない。

もし元旦那の血を受け継いでたら、彼は将来的にガリ男になるはずだし、わたしの血の方が濃かったなら、中肉中背になるはずだ。顔のパーツの殆どがわたしの遺伝子からできているので(残念でした!)、せめて体型くらいはあっちに似てほしいものだと思う。お母さんは細い男の子が好きだなあ。

身長に関しては、周りから心配いらないと思うという声が時々上がる。
大体、子供は親の身長を抜かすものだと思う。背の低い男の子の友達が数名いるけれど、家族の中で一番高いのがその子だったりする。
男の身長の悩みは、女のチチの悩みと少し似ていると思う。


2008/08/26(火) 春野
タイトル ようやく


時をかける少女
見た。
明日返却日ぎりぎり。
というのも、忙しくしていた云々もあるけれど、見たくなくて、勿体ない気がして
ずっと延ばしてた。

歌とトレースのMAD見て、それだけで「うg」となったから見ようと思ったのだけど
その時以上のあれだった。本家つええ。
MADはMADで既存キャラの差し替えではあったけど、イメージそのままストーリーが完全体だったので、そっちはそっちの素晴らしさがある。
言い訳に使われる場合が多いけれど、促進効果あるねこれねほんとね。CDは買おうと決めたやつあるけどまさかDVD買おうと思うとはね。しばらく見れねえね。


基本的に斜め目線の時期が続いて
退屈な作品でも良い所を見つけようという目になって
そういう目線を軽々クリアされて
飲み物忘れて時間忘れて
終わってしまう虚しさを強く感じたのは
今年はこれと電王だな。時をかける少女は06年だけど。


ジョージ先に読んでて良かった。
とんでもない虚しさに襲われたに違いない。


人間は本当に作る生き物なんだな。
命削って何してんだろう。
いやほんと小惑星とか翼とか咲かない花とかマジでどうでも良い比喩使ってねえで
自分の両手見た方がよっぽどだよ。
生きてる意味とかで悩む以前に
どうして二足歩行に切り替えて前足を手として使い始めたかってこと考えたら良いよ。
そこから分かれて器用な指があるんだよ。
人体そのものが芸術美いいいいい。





こつこつとデッサンしてる。
表現力以前に技術力が問われて
技術を磨く前に観察眼が問われて
観察力を持っていても表現力がなくちゃ作品はできなくて。
手と頭と目を使って根気を蓄えて心をぐっと押さえてんだ。
それに比べたら小説は素晴らしくエコロジーですね。自然に優しいという意味でなく。

しばらくは自分の絵を封印しようと思ってる。
見たものを描く力はそこそこに備わっているようなので、自分の絵になった時の狂い(想像と記憶)が気になるようになった。

雑誌に載っていた外人の女の子のポーズだけを拝借して、顔と服を変えたものを姉に見せたら、褒めてもらえた。勿論雑誌を見ながら書いたことを告げたのだけど、絵自体を褒められたのは初めてだ。今までは成長を評価して貰えていたので、褒め言葉は「合っている」だったけれど、今回は「可愛い」だった。
絵を描かない人は「合っている」の意味がきっと分からない。


2008/08/25(月) 春野
タイトル 人と人と人



話すことが楽しくなったのはいいのだけど
他人と言葉の被る場面がちょっと目立つようになってる。
多分、わたしのお喋りの量はそんなに変わっていない。
だから相手がわたしに対して、よく喋ってくれるようになったのだと思う。

聞き上手ではなく、訊き上手。
というのが、ホステスで学んだことの一つだ。
ある時から人の話をよく聞くようになったし、よく尋ねるようになった。
人間関係というものを考えた時、こうした手段は狡いというか、酷い、とまで思っていたことがある。マニュアルを作れるんじゃないのかな、というくらい、円滑で簡単になる。
こういうことを考えると、深みにハマるので、とっておきの一言があるんだ。

「それは思い遣りというものです」



多くの人が、自分の話を聞いてもらいたがっている。
そういうことを求めている。
吐き出すことは必要だ。聞いてもらえる相手がいることは幸せだ。
わたしはそう思う。だから誰かのはけ口に使われるのも、そんなに嫌な想いはしない。こちらの事情にもよるけれど、廉君の迷惑にならない程度なら、別に良いかなとか、そんな風にも思える。
面倒では、あるけれど。
だから、「思ったことざっくり言っても良いなら、聞く」というスタンスで。


わたしは色んな分野の人に、「お前はこれに関する才能が無いな」とよく言われた。
自分でも、凄く思う。ただ、好きなものは今でも続けているし、忘れても、やめよう!と思ったことはない。好きなことは、好きなことだ。うまくやれなくても、好きなんだから仕方無い。どうやらわたしはこれが好きなのだ。

少しだけ得意なものというのがある。
それは、「色々やってうまくできなくて、これならなんとなく無難な評価をもらえるから、なんとなく続けていました」というものだ。「これが好きだ!」「これが得意なんだ!」と思ってやっていたわけじゃない。
自分への評価は「まあ、良くはないけど、悪くもないんだろうな」というくらいのもの。

好きなことと得意なことが一致するって、羨ましいな。
でも、好きなものは好きになろうって思ってなったわけじゃないけれど、
得意なことは、後からでも得意分野にすることができるんじゃないだろうかって
差末な希望。


2008/08/25(月) 春野
タイトル 勘違い。




ハートを打ちのめせ!
読んでると思ったら、全然読んでなかった。なんか得した気分。
読むと相変わらずの内容。なのでなんか損した気分。
損っていうのは、気持ちの面やら金銭面的にとか時間の無駄とかいう実質的な部分じゃなくて、
ジョージはなんかもう、諸刃の剣なので。

打ちのめされたよ、なんだろうあの画力。
それにしてもなんという大ゴマ使い。



例えばぶっ飛んでる中学生や小学生を書いた時、それをアンリアルに感じるのは、あまりにもぶっ飛んでる書き方をする人を沢山見てきたからだと思う。
「こんな子供いないでしょ」という声が、書いている頭の後ろで時折聞こえる。
死んだ奴がいなかっただけで、割と酷い部類の人間がいたことを、わたしは知っている。だからといってそういう奴らを書きたいとは思わない。文字にした瞬間、彼らの生き様が嘘くさくみえるんだ。
事実だけれど、作者のわたしが「事実です」ということほどバカらしいものは無い気がしてしまう。
だって結局物語り。作者の声が物語に介入することが凄く嫌。わたしはその世界の人達を書くけど、書いているわたしはその世界の中にはいない。傍観者でも無い。神でも無い。
なんなんだろう。



また忙しい日々が戻ってきた。
けれど今回のものはわたし自身の忙しさなので、苦じゃない。いやその中に苦はあるけれど、望んでそこに入り込んだんだ。色々と手みやげを持って戻ってこよう。



もうすぐ一年経つ。
わたしの体調は相変わらずだ。変動してムラがあって落ち着いて、の繰り返し。でも大体の人がそうだろう。そういう意味で大した差は無い。
人と楽しく話せるようになったことが去年との違いだ。何かを許してるんだと思う。自分のことも許せるようになってきてるし、「どんどん失敗したら良いよ」と思える寛容さ。

変わらず色々なものを摸索してる。休息ってなんだろう。こんなにずっと動いている脳。せめて眠るときくらいは。


2008/08/25(月) 春野
タイトル さほど




前よりは気にならない。というか、気にしていない時間の方が多く、気にかけさせられるのは、いつも他人の言葉でだ。自ら進んで思い出すことは特にない。
けれど、後からその言葉を思い出して、一人の時間にじっくりと考えたりする。
論点は勿論、他人の言葉じゃない。それから発展した、次のステージでの話。


当たり前のことを、「それって当たり前だよね」で片付けるのは簡単だと思う。
社会性や一般論、導き出される可能性の一番高いもの、それらと照らし合わせたい場合なら、「当たり前」なり「普通」なりという言葉は適用して良いかもしれない。
でも、当の本人にしてみれば、今まで経験したことのないことは殆どが晴天の霹靂で、大発見なのだ。

理屈はシンプルで、統計学も良いものだ。わたし達には未来が見えないから、そうした理論の積み重ねで予知をするということは、人間の生み出した財産だ。わたし自身、人間は数値化できるし、帰化するとも思う。そもそも、人間の体をめぐる細胞や物質が数値化できるのだから当然なのだけど、自分の体の中身を知らない人が多いし、それほど興味もないだろうな。何しろそれは、『既に手に入れたもの』だから。

できないのは心くらい。その基準を定める人間の適正を定める人も必要になったりと、大変キリの無いことになる。そしてそれらは、推し量ってはいけないものだとも思う。

だから、理屈は一般論程度に留めておいて、あとはその個人に合ったやり方というものを摸索する必要がある。目的、目標、そうした目安を置くべきだとも思う。

理屈は好きだ。
冷静で淡々としているのも好きだ。
けれど、言いたいだけで、その言ったことに責任を持たないのは、お節介よりもタチが悪い。

説教をするのもされるのも嫌だ。
教えてもらいたい人は自分で選ぶし、自分から頭を下げる。

つまりどんな場合においても、

「お前には言われたくねえ」

とか、

「お前が言っちゃだめだ」

というものが適用されるんだね。
だからわたしは、人に何かを言う前に、自分を高めなくてはと思うわけで。そして時折潜りに行くんです。


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